めんどり通信/2013年6月2日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <「主のみこころ」に気付かない原因:目にある梁、人の心の奥に潜む「思い」「願い」、不信仰> |
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★旧約聖書 イザヤ書
55:6
主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
★新約聖書 テサロニケの手紙 第二 3:16
どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださ
いますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。
★旧約聖書 エレミヤ書 33:3
わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大
いなる事を、あなたに告げよう。
●エペソ人への手紙5章17節に「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、
よく悟りなさい。」、ヘブル人への手紙11章6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできま
せん。」と書かれているように、クリスチャンであるならば、まず「主なる神のみこころ」を知るこ
と、知った主のみこころを実行するための「信仰」を持つことは大切である。 主は、自分の快
楽のために使おうとして、悪い動機で願わない限り、求める者にみこころを知らせてくださり、
祈りに答えてくださる方である。(ヤコブ4:3、詩篇6:9) ただ、我々人の方が、主がみこころを
知らせてくださっていても、それに気付かず、自分の「思い」や「考え」を、「主のみこころ」と思
い込んで実行している場合が結構、多いかもしれない。 「主のみこころ」に気付かない原因の
一部を挙げてみる。
@自分の目にある梁に気付かない。 だから主のみこころがわからない。 ★「あなたは、兄
弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。(ル
カ6:41、マタイ7:3)」 イエスが語られた山上の説教の中の一節である。 イエスは、律法学
者やパリサイ人たち「偽善者」は、「まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっ
きり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」と言われたが、律法学者たちに
とっての梁とは、自分たちの律法主義であった。 イエスの「ことば」を聞いても、自分たちの考
えを離さなかった。 固執した。 自分たちの考えを貫く我の強さ。 この梁(丸太梁)を取り除
いてもらおうという意思がないから、回心できなかった。 イエスの「ことば」を理解できず、悟れ
なかった。 本当の意味で「主のみこころ」に気付いているとは言えない。
このことは律法学者やパリサイ人たちだけの問題ではない。 我々も自分自身を吟味してみる
必要がある。 表面上は、取り除いて欲しいと願っても、本心、本音が、本当にそう思っている
のかどうかである。 その人にとってのいざという時、ぎりぎりの時に、本音が出るものである
が、本心を知るその時が来ても、意識するしないにかかわらず、意図するしないにかかわらず、
案外見過ごしている場合が多い。 目にある梁に気付くことも取り除かれることも、聖霊によら
なければできないことである。 自分の努力ではできないことである。 霊のことは聖霊によら
なければ知ることができないからである。 肉(生まれながらの性質)では、神が本当に与えた
いと望まれている「神の恵み」を受けることができないからである。 主イエス・キリストとの出
会い、すなわち主イエス・キリストを真に受け入れることが必要であり、その主に心を開くこと
が必要である。 主に心を開くということは、本心から、自分にとっての梁(丸太梁)となってい
るものを取り除いてもらいたいと心底願うことである。
A主がみこころを知らせてくださっていること、主が語られていることに気付かない。 または、
自分の「思い」「願い」を優先して、主のみこころに気付こうとしない、ということがある。 ★「神
はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。(ヨブ記 3
3:14)」バラムは、モアブの王バラクからイスラエルをのろうよう依頼を受けた。 バラムは、
異教国の占い師であったが、真の神とも交わりを持っていたようである。 バラムは「あなたは
彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されてい
るからだ。(民数記22:12)」と神から言われたが、報酬に目がくらんで依頼人バラクのもとに、
ろばに乗って出かけた。 途中で主の使いに行く手を阻まれ、主の使いを見たろばは、うずく
まってしまった。 そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打った。 ろばには主の使いが
見えたが、バラムには見えなかった。 そこで、主に口を開かれたろばが、杖の不当性を訴え
ると同時に、神がバラムの目を開かれたので、ろばが見た「主の使いが抜き身の剣を手に
持って道に立ちふさがっている」のをバラムも見た。 ろばが前進を続けていたら、バラムの命
は無かったことを知った。
このとき、「主のみこころ」は、バラムが前進してモアブの王バラクのところへ行ってはいけない
ことを知ったはずである。 しかし、バラムから出た言葉は、「今、もし、あなたのお気に召さな
ければ、私は引き返します。」であった。 明らかにバラムの本心「報酬を得たい」は変わって
いなかった。 「みこころ」を知っても、自分の本心を貫こうとするとき、その人にとって、「主の
みこころ」は、絶対従わなければならないものだとは受け取れないようである。 「主のみここ
ろ」が、自分の「思い」や「願い」より低いものとなっている。 バラムは、民数記22章〜24章に
おいて、結果的には神に従い、バラクの依頼とは反対にイスラエルを祝福した。 しかし、主が
ろばを使い、主の使いを用いて、「主のみこころ」を知らせてくださっても、潜んでいる肉の欲求
を捨てようとはしなかった。 そればかりか、それを握って離さなかった。 結果、後にバラムは
イスラエルに剣で殺された。(民数記31:8)
主は祈り求める者には答えてくださる方であり、主に尋ねる者には、その人にとって一番ふさ
わしい時に答えてくださる方である。 主が答えてくださっているのに、人の方が主の答えに気
付いていないという場合が結構ある。 「主の答え」「主のみこころ」を知るのに妨げているの
が、人の心の奥に潜む「主のみこころ」に反する肉の「思い」「願い」であり、それを優先して
握って離そうとしない自我である。 自分の肉の「思い」「願い」を優先するあまり、「主のみここ
ろ」に気付かないというより、気付こうとしない、ということがある。
B主がともにおられることに気付かない ★「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエ
スご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられてい
て、イエスだとはわからなかった。(ルカの福音書24:15、16)」 キリストは十字架で死ぬが3日
目には、よみがえることを、主は前もって弟子たちに話されていた。 その「ことば」通り、3日目
によみがえられた。 ルカによる福音書には、御使いが墓に来た女たちに、そのことを話し、
女たちは、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告したと記されている。 とこ
ろが、その報告を聞いた弟子たちは、キリストが、よみがえられたことを、にわかに信じること
が出来なかった。 その中のふたりの弟子が、その良き知らせを信じることができないまま、
むしろ失望して、エルサレムを離れエマオへ向かっていた。 途中、イエスが近づいて来られ
た。 しかし、彼らはイエスと気付かなかった。 ふたりの目が「さえぎられていた」からである。
「さえぎっていたもの」は、「不信仰」であった。 彼らは、近づいてきたイエスに説明した。 イエ
スという方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者だったこと、十字
架につけられ死なれたこと、彼らは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みを
かけていたことを過去形として説明した。 更に、3日目の朝早く、墓で女たちが御使いたちの
幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げたことを、「自分たちはイエスは生き
ておられることを信じていない」という立場で説明した。
そのとき、よみがえられたイエスは「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じな
い、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光には
いるはずではなかったのですか。(ルカ24:25,26)」と言われた。 しかし、それでも彼らは、そ
の方がよみがえられたイエスだとは気付かなかった。 彼らが、その方がイエスと気付いたの
は、その後、一緒に食卓についたとき、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された
が、その姿を見たときであった。 彼らの目を開かせてくださったのは、よみがえられた主で
あったが、律法学者やバラムとの違いは、この方が道々お話しになっている間も、聖書を説明
してくださった間も、彼らの心はうちに燃えたということである。 復活のキリストに触れた、聖
霊に触れたということである。
確かに彼らは不信仰だった。 「この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけ
ていた」というように、彼らの望みは、キリストがイスラエルをローマから救い出してくれる、そし
て神の国イスラエル王国を建ててくれる、すなわちイスラエルの主権を回復して、ダピデやソロ
モンの時代のような繁栄を取り戻してくれるというものであった。 女たちが御使いに会い、イ
エスはよみがえられていると言ったことを聞いても、それは幻だったと片付けている。 キリスト
が罪の奴隷から人を贖うために来られたことを、彼らはまだ理解していなかった。 そのような
彼らに、主は近づいて来られた。 十字架に赴かれるキリストに従い通した弟子はひとりもいな
かった。 十字架に赴かれるイエスから弟子たちはみな弱さのため逃げてしまったが、 そのこ
とで苦しんだことも事実である。 この二人の弟子だけでなく、ペテロやトマスたちも自分の罪
に打ちのめされるほど苦しんだと思われる。 そのような彼らの心を主はよくご存知だったか
ら、主の方が近づいて来てくださり、主が気付かせてくださったと思われる。
このようなことがあって、「キリストのよみがえりを信じることが出来なかった」、すなわち「不信
仰」だった弟子たちは、より深く 主イエスがいったい何を求めているのかということを意識する
ようになったと思われる。 我々もこのエマオに向かっていた弟子たちと同様な者である。 試
練や訓練が苦しく、現状が悪いことばかり続くと、希望を失い、これからどうなるのだろうと、現
状と自分の心を見て、主を見ないということになりがちである。 人は生活の中で、意識するし
ないにかかわらず、自分にとって何が得になることか、何が損になることかを考えがちである。
そういう考え、思いが「不信仰」をもたらす。 そして、そういう不信仰が、主がともにおられること
をさえぎっている。 本当は、主はそこにおられるのに、自分たちが見えないだけなのである。
いずれにしても、 日々、「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味」してい
き、真に心から主の御前にへりくだり、主イエス・キリストから目を離さず、キリストとの交わりを
深くしていきたいものである。 そして心の奥底にある主の喜ばれないものを教えていただき、
変えていただきたいものである。
★旧約聖書 ミカ書 6:8
主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられる
のか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと
ではないか。
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