めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年5月26日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
「占い」「霊媒」など悪しき霊にかかわらず、主の前に静まり、主の御声を聞くことが大切



★旧約聖書  レビ記 20:6 
   霊媒や口寄せのところにおもむき、彼らを慕って淫行を行なう者があれば、わたしはその
   者から顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。
 
★旧約聖書 エレミヤ書 42:6
   私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。
   私たちが私たちの神、主の御声に聞き従ってしあわせを得るためです。
 
★旧約聖書  レビ記 20:27
   男か女で、霊媒や口寄せがいるなら、その者は必ず殺されなければならない。
 
★新約聖書 エペソ人への手紙 4:27
   悪魔に機会を与えないようにしなさい。 
   
●現代はテレビ、雑誌、インターネット、・・などいろいろなところで「占い」「霊媒」「霊視」などを
見たり聞いたりすることが多くなった。 最近では、テレビの娯楽番組の中にも組み込まれて、
人々の(悪しき)「霊」に対する危機感が削がれているようである。 キリストの弟子ヨハネは
「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためし
なさい。(Tヨハネ4:1)」と注意を促している。 真理の霊と偽りの霊があるからだ。 「霊」は、
大きく分けると、「神の霊(聖霊)か悪魔(サタン)からの霊かである。 悪魔はこの世の支配者
であり、いろいろな種類の手下の悪しき霊がいる。(ヨハネ福14章) 占いの霊、恐れの霊、偽
預言者の霊、賭博の霊・・・と多々いる。 
 
旧約聖書サムエル記 第一28章にイスラエルの初代王サウルが「霊媒」に頼ったことが書か
れている。 サウルは、神に対して不忠実だったゆえ、神の霊が離れていった。 サウルは主
に伺ったが、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかったの
で、エン・ドルというところにいる霊媒の女のところに行って、サムエルを呼び出してもらった。 
「霊媒」に頼ることは、モーセの律法の中で禁じられていた。(レビ記19:31、申命記18:11,12) 
このとき、サムエルが現れたが、本当に死んだサムエルだったのか、それともサムエルに装っ
た悪霊だったのか、キリスト教会の中でも意見が分かれている。 いずれにしても、「霊媒」に
頼ることは、神が忌み嫌われることである。 
 
「占いの霊」に関しては、使徒行伝16章に書かれている。 パウロとその一行がローマの植民
都市であったピリピへ行った時のこと。 パウロたちが、祈り場に行く途中、占いの霊につかれ
た若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者で
あった。 この女占い師は、幾日もパウロたちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き
神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けた。 
り果てたパウロは、女から「占いの霊」を追い出した。 すると彼女の主人たちは、もうける望
みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行
かれたという出来事があった。
 
このところからわかるように、「占いの霊」は、人に利益をもたらす、願いを叶えることができ
る。 将来や未来さえ当てることもある。 自分が今後、どう進めばよいか悩むとき、「占い」
「霊媒」に頼る人も多いかもしれない。 しかし、聖書では、基本的に「占い」「霊媒」「魔術、呪
術」「卜占」などは禁じている。(レビ記、申命記) なぜなら、サタンや悪しき霊の目的は、人の
心を支配して、人の解決していない問題を利用して怒りやねたみを起こさせるなど影響を与え
ること、人を悲しみに突き落とし、人の人生を滅ぼすこと、人を真の神から引き離すことである
からだ。 そして、神ではなく、自分(悪魔、悪霊)を礼拝させようとする。(エペソ4:26,27、Tペ
テロ5:8,9、Uテサロニケ2:4、Tコリント10:19-22)
 
昨今、「占い」などを趣味程度にしている人が多いと思われる。 深く考えないで、自分の心底
にある「思い」を吟味もせず、「占い」「霊媒」に対する「思い入れ」も浅く、時には「遊び感覚」で
関わる人が多いのではないだろうか。 最初から深入りする人はほとんどいないかもしれな
い。 しかし、たとえ冗談でも軽い気持ちで関わったとしても、その軽い気持ちが、悪魔や悪霊
につけこまれる隙を与えていることになる。 悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべき
ものを捜し求めながら、歩き回っているから、目をつけられる、その隙を見つけられる時が遅
かれ早かれ来る可能性は大きい。 悪魔、悪霊は、人をひきつけることに関して巧妙である。 
「占い」や「霊媒」を始めた最初の頃に、当たった、好い目が出る答えだ、と思ってもそれが罠
であることが多々である。 
 
ある程度、誰にでも当てはまる事ではなく、当てずっぽうでもなく、その人だけにしか知り得な
いことを言い当てる「占い」や「霊媒」、また、(主からのものでない)不思議な勘が働くこと、金
縛り・・・など何らかの力が働いていると思われる場合は、悪魔、悪霊からのものである可能性
大である。 主なる神は、奇蹟を行なわれ、不思議を現わされるが、それらは「神の恵み」であ
り、「救い」に繋がるものである。(詩篇17:7、T歴16:12) そして、ご自身に対してへりくだった
者、主に信頼する者に与えられるものである。(箴言3:34、詩篇32:10) しかし、悪魔、悪霊か
らのわざや不思議は、「恵み」とは程遠いものであり、人の欲求を満たし、自分は特別なんだと
自負心を持たせて巧妙に、人を神から引き離し、滅びへと向かわす。 決して、あからさまに神
を否定させるような思いを持たせるわけではない。 しかし、この悪霊から解放されていないと
気がついたときには、もう手遅れということもあり得る。 主なる神に対する関心、思いは消えう
せ、この地上のこと、自分のことに関心が向くという結果になる。 ますます悪しき霊の影響を
受けやすくなってしまう。(ガラテヤ5:19-23) それこそ、悪魔、悪霊の思う壺である。
 
そうならないために人が悪霊に、つけいるスキを与えないことが大切である。 悪霊が働きや
すい心と働きにくい心がある。 絶えずキリストに目を向けているなら、悪霊にとってはつけい
る隙がなく、悪霊は働きにくい。 なぜなら、主に心を向けている者を、主は清めてくださり、顧
みてくださり、守ってくださるからだ。 主が目を留めてくださるということは、主はその人に試
練、訓練をもってその人を砕き、清めてくださるということである。 我々すべての人は、アダム
とエバ以来の罪、罪の性質を受け継いでいるから、神に赦され、清められる必要がある。  
悪霊から全く解放され、悪霊からの攻撃は受けても影響は受けず、むしろ悪霊からの攻撃さ
え、キリストにあって益に変えられ、どのような苦難、試練があろうともキリストにしっかりつな
がって揺るがず、聖霊の流れに乗って確実に、主の喜ばれるところへ前進して行くことを、主
の方が我々に対して望まれていることである。 

著者は、救われる前、「占い」「霊媒」「卜占」などを通して、自分の将来を知ろうとした。 35年
ほど前のことである。 ずっと長い間、心に飢え渇きを感じていた著者は、様々なことにトライし
た。 しかし何をしても満たされなかった。 自分はどうなるのだろうと将来を知るため「占い」
「霊媒」「卜占」に走った。 しかし、用心深いというより、疑い深かった著者は、1箇所では信用
できず、何十軒も行き、結果を自分で統計を取ったりして判断しようとした。 その中で自分が
選んだ答えから、いろいろな方法で先祖供養をしたり写経をしたりした。 知らなかったとはい
え、神が忌み嫌われる偶像礼拝をこれでもかというほどしていた。 そんなとき、主の方が著
者を見つけ出してくださった。 当時の教会で一晩祈り通したとき、祈りの途中で、著者は嘔吐
した。 そのとき、悪霊が著者の体の中から出て行くのがリアルにわかった。 自分は、こんな
霊に支配され、苦しんでいたのかと、そのとき思ったことを覚えている。 そして、主イエス・キリ
ストに感謝、感謝の祈りをささげた。 それ以降も主は、著者をいろいろな危機から救ってくだ
さった。 主は著者が、まだ救われていないときの危機からも救ってくださっていた。 著者は、
この方に「命」をかけるべきだと心底から思ったものだ。 今もその思いに変わりはなく、ますま
す そう思うようになった。 
 
さて、人はクリスチャンであろうとなかろうと、この地上で目に見えない(悪)霊の影響を受けて
いる。 悪しき霊は人格的なものであり、悪意を持っている。 特に、主につくキリスト者に対し
ては、霊は惑わそうと必死にしかも巧妙に働いてくる。 時には、攻撃として向かってくる。 主
につくキリスト者の歩みは、戦場のようなものであるといえる。 この地上には、この地上の支
配者である悪魔、悪霊どもがいるからだ。 だから、霊的な対応が必要になってくると思われ
る。 そのため霊を見分けていく、霊の働きを見破っていくことが重要になってくる。 
 
今、我々ができること、それは、悪霊に、つけいるスキを与えないことであり、聖霊が働きやす
い心に変えていただくことである。 そのために、目を覚まして祈りを積んでいくことである。 
的を得た祈りをもって聖霊に働いていただくことである。 神のことばである聖書を読むことで
ある。 キリストにしっかり、ついているならば、主が霊的なことについて、主にあっての訓練を
してくださるだろう。 そうして、我々の悪霊に付け込まれやすい肉を切り取り、悪しき霊が利用
する自我を砕いてくださるだろう。 いよいよ、きよめられて、日々、主の前に静まり、主の御声
を聞くという生活をしていきたいものである。
 
★新約聖書 コリント人への手紙 第二 11:14
   しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。
 



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