めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年5月19日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<キリストのゆえに:ダビデとソロモンから学ぶ>



★旧約聖書 詩篇 32:1,2
   幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。 幸いなことよ。主が、咎をお
   認めにならない人、心に欺きのないその人は。
 
★旧約聖書 詩篇 16:8
   私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
 
●ダビデは、「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は
幸いである。」と言っている。(ローマ4:7、8 詩篇32:1、2) ダビデは、神に愛され神を愛した
人として知られている。 また、イスラエル王国を建てた人である。 聖書には、イスラエルの王
たちの中で、最初の3人の王、サウル、ダビデ、ソロモンについて多く記されている。(サムエル
記、TU列王記、TU歴代誌) その中でもダビデの生涯の出来事の多くは、キリストの予表
となっていると言われている。
 
主がイスラエルの初代王サウルを王位から退けた後、ダビデを選ばれた。 主がダビデを王
に任命され、預言者サムエルによってダビデは油注がれた。 キリストが公生涯に立たれたの
は30歳だったが、ダビデもイスラエル全土、全部族を統一し、実際、王として立ったのは、30歳
の時である。 ダビデの生涯は、前王サウルから命を狙われ、王として立つ前も立った後も、
戦いに次ぐ戦いであった。 主から召し出され、主を愛し、主に愛されたダビデだったが、生涯
の後半(約50歳頃)に、姦淫と殺人の罪を犯した。 預言者ナタンの指摘を受けて、神の御前
にへりくだり、深く悔い改め、それらの罪を神に赦していただいた。 ダビデの生涯は、波乱万
丈だった。 
 
しかし、主なる神は、ダビデに「約束のことば」を語られた。 「あなたの家とあなたの王国と
は、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。(Uサムエル記
7:16 )」 また、「・・・彼はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまでも
堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。わたしはわたしの恵み
をあなたの先にいた者から取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることは
ない。・・・(T歴代誌17:1-14)」である。
 
ダビデに与えられた神からの契約は、ダビデの子ソロモンによって成就されるかに見えた。 
その子ソロモンは神から知恵を与えられ、類まれな知恵者として知られ、荘厳な神殿を建設
し、ソロモンの栄華をイスラエルにもたらしたからだ。 ところが、ソロモンは晩年、神から離れ
てしまい、彼の死後、王国が分裂してしまった。 ソロモンによっては、ダビデの王座はとこしえ
に立ち得なかった。 その後、約千年の時を経て、ようやく罪のない神のひとり子イエス・キリス
トが来られ、成就した。 罪のない者でなければ、ダビデ契約は成就し得なかったのである。 
御使いガブリエルは、マリヤに「・・神である主は彼(イエス)にその父ダビデの王位をお与えに
なります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。(ルカ1:32、3
3)」と言ったが、確かに今後、イエスが、ダビデの王位を受け継ぎ、終わることのない国の王と
して、永遠に支配される時が来る。(黙示録11:15) 
 
さて、ダビデの子ソロモンが、神から離れ、偶像礼拝に陥ったとき、主は二度も彼に現われ、
警告したが、彼は主の命令を守らなかった。 そのようなソロモンに対して、主は怒りを発せら
れ、「わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。」と言われた。 「し
かし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、あなたの子の手からそ
れを引き裂こう。」とも言われた。(列王記10:9-13) 要は、後に、王国は二つに分裂された
が、ダビデにゆえに、ソロモンは滅ぼされず、王として留まったということである。
 
このところにおいて、ダビデをキリストの予表として見るとき、我々もキリストのゆえに、滅びか
ら免れることができるということである。 キリストは、我々の罪の身代わりとなられて十字架で
死んでくださり、3日目によみがえられた。 キリストは今なお、失われた人を捜して救おうとして
おられる。 今の時代は、その終盤にさしかかったと言えよう。 すべての国々の民が、その御
前に集められ、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、すべての国々の民が、より分けられる時
が近づいていると思われるからだ。(ルカ19:10マタイ25章)
 
ソロモンは、ダビデのゆえに滅びを免れた。 我々もキリストのゆえに、滅びから免れることが
できる道が開かれている。 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。(ローマ10:1
3)」、「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。(ヨハネ福10:9)」
と書かれている。
 
また、こういうことも言える。 ダビデは、神から「ことば」をいただいていた。Uサムエル記7:1
6、T歴代誌17:1-14などである。 この「主のことば」ゆえに、ソロモンは滅びを免れたとも言
えよう。 また、生涯の前半では、ソロモンは神が喜ばれる生き方をした。 後半に偶像崇拝
に走ったが、ソロモンの晩年の作であると言われている「伝道者の書」の最後、12章13節
見るなら、「 結局のところ、・・神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてであ
る。」と書かれているが、ソロモンが、このことを悟ったのであれば、それは大きいことである。 
 
いずれにしても、一家、もしくは一族の救われている誰かが、主から「ことば」を頂いている場
合、他の救われている家族(広い意味では親族)が、信仰の成長が遅くても、「主のことば」
を頂いている「その人のゆえに」、主から離れずに保たれている、留まれているということがあ
り得るということだ。 もちろん、その「主のことば」の内容にもよる。 そして、「主のことば」
頂いている人が、神から見られて真のキリスト者であり、主が「良し」とされる道を歩んでいる
ということが必須であろうと思われる。 また、保たれている者も、主に目を向けて、主の御旨
がなんであるかを悟るために取り組んでいることが大切であろう。(エペソ5:7) 基本的には、
救いは、一人一人であるし、霊的成長、信仰の成長も一人一人であるが、「その人のゆえに」
ということがあり得るということだ。 
 
「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んで
いたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによる
のです。―(エペソ2:4,5)」と書かれているが、「恵みのゆえに」ということ、すなわち「キリストの
ゆえに」ということを、我々は、ますます深みに握っておくことが必要であろう。 「キリストのゆ
えに」罪を赦され、救われるのである。 そして、一人一人に応じて、「キリストのゆえに」、霊も
信仰も成長させてくださる。 「キリストのゆえに」キリスト・イエスを知らせてくださる。 体験さ
せてくださる。 そして、いずれ、一人一人がこの地上で、すばらしいと思い握っていたものを
「キリストのゆえに」損と思えるようにしてくださる。 すばらしいと思い握っていたものに、悪霊
が働く、悪霊が付け込んでくる、ということが、結構多いからだ。 
 
いずれにしても信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、主の御前に素
直になり、日々の生活の中で、絶えず「キリストのゆえに」・・・と想い、感謝し、祈っていきたい
ものである。 主の支配の下、主の影響の下に自分を置き続けていきたいものである。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 7:21-25
   そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという
   原理を見いだすのです。 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるの
   に、 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをい
   どみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。 私は、
   ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるので
   しょうか。 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私
   は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
 
 



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