めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年5月12日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<心の深層部まで清められることの必要性:サウルとバラムから学ぶ>



★旧約聖書(口語訳) 詩篇 19:14
   わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが/あなた
   の前に喜ばれますように。
 
★旧約聖書 エレミヤ書 17:10
   わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によっ
   て報いる。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 8:13
   もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだ
   の行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
 
●人は心の内側にあるものが、外側にあらわれるものである。 心の思いが言葉や行動に表
われるものである。 思いと裏腹な言葉を語ったり、行動したりしても、その人の思いがどうい
うものかが、案外、聞く者、見る者に知られる場合も多い。 また、意外と人の言葉、行動の中
に、その人の心の深層部にある「思い」「願い」が垣間見られるものである。 心の深層部にあ
る「思い」「願い」が、石のように固い自我となっている人が結構多いかもしれない。 そもそも
人間すべてに「自我」「自己」は確立している。 アダムとエバが、「命の木」は食べずに、神が
「決して食べてはいけない、食べると必ず死ぬ。」と仰せられた「善悪を知る木の実」を食べて
以来、人の中に「(原)罪」が入ってきた。 それ以降、人間は神以上に、「自我(自己)」を意識
するようになり、自分を基準にするようになったのである。 そのことは、自分で意識している場
合もあるが、無意識の場合が多いであろう。
 
人間が「自己」を意識しつつ生きていく内に、「自我(自己)」は強くなってくる。 「自我」が強く
なってくると、人の性格に応じて表われ方は様々であるが、自分の「思い」や「願い」をどのよう
にしても「遂げたい」「貫きたい」という感情が強くなってくる。 世の中の多くの人間とのかかわ
りの中で生きているので、「遂げたい」「貫きたい」という衝動に駆られても、人間の「良心」や
「人目を気にする」心などが働いて、衝動を抑えようと試みる。 それでも、本人が気付いてい
る範囲では、セーブも可能な場合もあるが、抑えきれないで爆発してしまう、つまり言いたかっ
た言葉を語り、したかった行動を取るということも多いであろう。 ただ、そういう自我とも言え
る「思い」や「願い」に限って、心の深層部に潜んでいて、本人が気付いていないことも多い。 
また、目に見える忙しい日常の生活を過ごしているので、そういうことを考えることがなく気付
いていない場合もある。 
 
心の深層部にある「思い」や「願い」が主の喜ばれるものであれば問題ないが、神の見解は、
主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。(詩篇94:11)」、「人が心に
思い図ることは、幼い時から悪い(創世記8:21)」ということである。 だから、自分が気付いて
いる、知っている「思い」「願い」が清められることは当然、必要であるが、まだ、自分が気付い
ていないだろうと思われる「思い」「願い」こそが、「清められる」ことが重要である。 心の深層
部にある「思い」や「願い」が、その人が進む道を決定する、と言っても過言ではないからだ。 
主が「良し」とされない「思い」「願い」が、言葉や行動に表われて、主が「否」とされる道を歩み、
主に裁かれる、滅ぼされるということがあるからだ。 箴言16章25節、14章12節に「人が見て
自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。」と書かれている。
 
さて、聖書の登場人物から上記のことを見てみる。 旧約時代のサウルの場合。 当時、イス
ラエルの民の強い要望によって、サウルは初代イスラエル王として立てられた。 預言者サム
エルから主のことば「行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。」を聞い
ていたが、その「主のことば」に従わなかった。 最も良いものは残し、つまらないもの、値打ち
のないものだけを聖絶した。 そのことをサムエルに指摘されると、「私は主の御声に聞き従い
ました。」と言い張った。 尚、事実をもってサムエルに指摘されると、「民が・・・取って来たの
です。(Tサムエル記15:21)」などと言い訳した。 サムエルの「あなたが主のことばを退けた
ので、主もあなたを王位から退けた。」ということばを聞いて、サウルは悔い改めの言葉を言っ
た。 しかし、自分の「思い」「願い」を遂げた、貫いた後の悔い改めにしては軽すぎる。 単な
る失敗ではすまされないことである。 サウルの態度は、「悔い改めた」とは言えない。 「私と
いっしょに帰ってください。」と言う言葉から伺える。 更にまだ、民の長老とイスラエルの民の
前に自分の面目を立てるという、自分の「思い」「願い」を貫こうとしている。 サウルは心の深
層部にあった「思い」「願い」を、感情、心の赴くままに表し、わが道を進んでいった。 結果、神
の霊は離れ、無残な死を遂げた。 神は、サウルの心の深層部にあった「思い」「願い」、すな
わち「自我」を砕こうとされたが、サウルは拒否したことになる。 人に「主のみことば」が与えら
れるということは、その「ことば」を行なうために、その人の心の深層部にある主の「良し」とされ
ない「思い」や「願い」を捨てなければならない。 すなわち「自我」が砕かれ、「肉」が切り取ら
れることになる。 サウルは、その取り組みを避けたと言えよう。
 
旧約時代のバラムの場合。 バラムは、当時、モアブの王バラクからイスラエルをのろうように
との依頼を受けた。 バラムは神に伺うと、「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。また
その民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ。(民数記22:12)」と言われた。 
それで断った。 ところが、前回より大人数で、しかも位の高いつかさ達であるうえ、多くの銀や
金を提供すると申し出があった。 バラムは「たといバラクが私に銀や金の満ちた家をくれても
・・主のことばにそむけない・・(民数記22:18)」と言ったが、続けて「主が私に何かほかのことを
お告げになるかどうか確かめましょう。」とも言ったことで、バラムの心の深層部には、バラクの
要求に応えて金銀を手に入れたいという「思い」「願い」があったことが伺える。 もしかしたら、
主がみこころを変えられるかもしれないと期待していたかもしれない。 
 
そういうバラムの心をよくご存知の主は、バラクの使者と一緒にモアブの王バラクのところへ行
くことを許された。 バラムが真に悔い改め、主に従うチャンスを与えられるためでもあった。 
途中、剣を持った主の使いとの遭遇や、ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言
たりとバラムが、心の深層部にあった「思い」「願い」を捨てるチャンスを与えられた。 いわば、
「自我」の砕かれ、「肉(生まれながらの性質)」が切り取られるチャンスの時を与えてくださった
のだ。 しかし、バラムは「私は罪を犯しました。」と悔い改めの言葉を言いはしたが、続いて
「今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します。(民数記22:34)」と言ったことで、
バラムの心の深層部にある「思い」や「願い」は捨てていない、それどころか、より固まったこと
が伺える。 バラムはこのときは、イスラエルをのろうことなく、神のみこころ通り、イスラエルを
祝福したが、だからと言って、主が「良し」とされる、「従い」ができたわけではない。 その後も
バラムの「自我」は砕かれず、「肉」は切り取られなかったので、結局、バラムは滅んだ。(ヨシ
ュア記13:22)
 
サウルとバラムの共通点は、自分の「思い」「願い」を遂げたい、貫きたいということである。 
主から真の悔い改めのチャンス、すなわち「自我」が砕かれ、「肉」が切り取られるチャンスを
与えられても、それらを拒否したことである。 彼らにとっては自分の「思い」「願い」を遂げるこ
とが、自分の魂を喜ばせ、正しい道と認めていたのであろう。 しかし、旧約聖書 箴言16章25
には「人が見て自分で正しいとする道があり、その終りはついに死にいたる道となるものが
ある。」と書かれている。 
 
いずれにしても、心の深層部に隠れているかもしれない主が「良し」とされない「思い」「願い」が
浮き彫りにされるようにと願う。 主が自我を砕き、肉を切り取ってくださるような出来事が起こ
ったり、苦しい状況になったときには、神の御許しによらなければ何事も起こりえないと認め、
「主と主のことば」に返ることに取り組んでいきたいものである。 
 
★旧約聖書 詩篇 25:8
   主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。
 



めんどり聖書研究会