めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年5月5日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「主のことば」を心の奥に受け入れることの必要性>



★旧約聖書 エレミヤ書 20:12
   正しい者を調べ、思いと心を見ておられる万軍の主よ。・・・・
 
★新約聖書 マタイによる福音書 15:16-20
   イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。 口にはいる物はみな、腹
   にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。 しかし、口から出るものは、心
   から出て来ます。それは人を汚します。  悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、の
   のしりは心から出て来るからです。 これらは、人を汚すものです。 しかし、洗わない手で
   食べることは人を汚しません。」
 
●イエスは律法学者やパリサイ人たちを、「偽善者」と厳しく断罪された。 「偽善者」とは、外
面的に善人、良い人を装っているが、本心は肉の働きである貪欲、傲慢、ねたみ、憤りなど、
罪の思いに支配されており、それを隠している者である。 律法学者やパリサイ人たちの場合、
人に見せるために、経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたり、見えのために長い祈りをし
ていた。 また、律法の中ではるかに重要な正義もあわれみも誠実もおろそかにしていた。 
うわべばかり整えて、心が清くなることには無頓着で自我の赴くままに生き、イエスが言われる
「ことば」にことごとく反対し、主を敵対視し、挙句の果てには、群衆を扇動してイエスを十字架
につけ殺した。 また、大ぜいの群衆、ユダヤ人たちは、律法学者やパリサイ人たちの外面的
な言動しか見えず、彼らも自我の赴くままに行動するような者たちだったので、イエスがエルサ
レム入場のとき「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。」とイエスを歓迎したが、その1週間後には
「十字架につけよ」と叫んだ。
 
律法学者やパリサイ人たちの心の奥底に潜ませていた思いをご存知の主は、彼らの偽善を
指摘された。 彼らはイエスの言動を見張るかのように、イエスが教えておられるところに顔を
出した。 イエスに指摘されたり、「ことば」を言われたときは、彼らにとって悔い改めのチャン
スの時であり、自我が砕かれ、肉が切り取られて心の思いが清められ、変えられるチャンスの
時であったが、彼らはそのチャンスの時を、イエスに反抗する時とイエスを責める時に変えてし
まった。 だから、律法学者やパリサイ人たちは、聖書の知識に長け、聖書の預言を熟知して
いたはずだが、聖書が預言していた方を認めることができなかった。 彼らは自我が砕かれる
ことを望まず、肉が切り取られるための苦しみを拒み、変えられなければならないとは思って
いなかった。 自我を押し通しているにもかかわらず、神のみこころを行なっていたと思い込ん
でいたようである。 甚だしい勘違いであり、恐ろしいことである。 「主を十字架につけて殺し
た」ことは、サタンに使われた、サタンのために働いたと言っても過言ではない。
 
ルカの福音書19章に登場してくるザアカイの場合。 当時のイスラエルはローマの属国だった。 
ローマに雇われた取税人のかしらザアカイは、同胞から税金を取り立て、それも自分の地位
を活かして、多く取り立て私服を肥やしていたようである。 表面は、同胞から非難や軽蔑を受
けるのも仕方がないと言える暮らしぶりだったようである。 ユダヤ人たちから見れば、ザアカ
イは「良い人」とはほど遠い者だった。 そのザアカイが、イエスと出会い、「きょうは、あなたの
家に泊まることにしてあるから。」と主イエスから「ことば」を語られた。 原語から解釈すると、
軽い言い方ではなく、神ご自身の方から必ず、「泊まることにしている」ということである。 主イ
エスは、ザアカイ本人も気付いていなかったと思われる心の奥にある思いや求めをご存知だ
ったようである。 その心の態度は、神に対してへりくだっていたことを主は見ておられた。 ま
たザアカイも、主に出会い、主の「ことば」に触れたことにより、心の奥にあった自分の本心を
明確にわかったと思われる。 しかし、群衆、ユダヤ人たちは、ザアカイの言動から彼を、「罪
人」「悪い者」と見ており、イエスがザアカイの家に入られたことで、イエスに対しても「あの方は
罪人のところに行って客となられた。」とつぶやいた。 
 
主がザアカイに掛けられた「ことば」「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」を
聞いて、ザアカイは大喜びでイエスを家に迎えた。 そして、イエスが家に入られた後、ザアカ
イは自分の罪を悟り、するべきことを悟って、「主よ。・・私の財産の半分を貧しい人たちに施し
ます。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」と告白したが、これ
は実際を伴った真実な悔い改めであった。 主イエスは、その悔い改めを「良し」とされた。 そ
れで、「きょう、救いがこの家に来ました。」と言われた。 この主の「ことば」ほど確かな「救い」
のことばはない。  
 
世間的に見れば、一見、律法学者やパリサイ人たちの方が「善人」「良い人」と見られ、ザアカ
イの方が「悪人」と見られるだろう。 しかし、神の見方と人の見方は違う(Tサムエル16:7) 
律法学者やパリサイ人たちも群衆、ユダヤ人たちもイエスが語られた「ことば」を何度も聞く機
会があり、聞いた。 耳で聞いたが、心の深みに受け入れなかった。 むしろ、多くの律法学者
やパリサイ人たちは、その度、主の「ことば」に反対し、敵対した。 群衆、ユダヤ人たちは、律
法学者やパリサイ人たちに扇動されただけで主犯ではないと言っても、結局、「十字架につけ
よ」と叫んで、律法学者やパリサイ人たちに同調したから、扇動されただけ、というのは通用し
ない。 ユダヤ人たちも、主イエスの「ことば」を聞いていたからだ。 そして彼らも、耳で聞いた
が、心に受け入れなかった。 「主と主のことば」を拒否した者たちは、ますます強くなり、主を
十字架につけるまでに強くなった。 しかし、最後まで悔い改めをしなかった多くの者たちは、
最終的には滅ぼされた。 事実、紀元70年エルサレムは陥落させられ、エルサレムにいた多く
のユダヤ人たちは殺された。
 
一方、「主と主のことば」を心の深みに受け入れたザアカイは、肉の働き(不品行、汚れ、好色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そう
いった類のもの(ガラテヤ5:19-21)が弱くなった。 救いが家にまで及び、ザアカイのその後
は聖書には記されていないが、彼の人生は全く変えられたと推測できる。 主が「良し」とされ
た人生に変えられたことであろう。 
 
こうして見ると 、主のことばに従うことができない「自我」が砕かれないままであったり、主と主
の「ことば」を拒否する「思い」を温存し続けるならば、その「自我」「思い」に悪しき霊が働く可
能性があり得るということであろう。 また、聖書や牧会者、兄弟姉妹、出来事などから主の
「ことば」を聞いたり教えられたりしたとき、その「ことば」を単に耳で聞くだけでなく、心の奥に
受け入れないならば、更に「悪い思い」、すなわち、「主の御心からかけ離れた思い」を悪しき
霊どもが入れてくる可能性があるということである。 そして、そのような「思い」が入って来た
ならば、それが「主の忌み嫌われる思い」とは気づかないことが多いと思われる。 耳で聞いて
も、心に受け入れないならば、主がその人に語られた「主のことば」を拒否していることになる。 
拒否から次に続くのは、反対、反抗、敵対である。 そして、「自我」は更に固くなり、「肉」は更
に強くなり、悪しき霊に使われてしまうか、もしくはいつの間にか悪しき霊と結託してしまう危険
性が出て来る。 自分では主に従っていると思い込んで、実は「主と主のことば」に敵対して歩
んでいるということがあり得る。(ピリピ3:18)
 
そのようにならないためにも、我々は、常に、「主と主のことば」に対して、素直になり、へりく
だって心の奥にまで受け入れていきたいものである。 そのことを邪魔する「自我」が砕かれ、
肉(生まれながらの主に従うことのできない性質)が切り取られるために、私のやみを照らされ
る主に心を照らしていただき、キリストにあって自分を吟味していきたいものである。(Uサム
エル記22:29) ただ、「人の内側のものと心とは、深い。(詩篇 64:6)」 人の心の奥底を知
っておられるのは、主なる神のみである。 主は、我々自身が自分について知っている以上
に、我々のことを知っておられる。 だから、我々は絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、
キリストとの交わりを深くしていくことが必要であろう。 また、人は、失敗、挫折、人からの指
摘などを通して自分の弱さ、無力さ、罪深さを嫌というほど知らされて苦しみ、絶望するほど心
が痛んで、自我が砕かれ、肉が切り取られるものであろう。 その苦しみ、痛みは、自分の自
我を押し通せないための苦しみとは違うものである。 自分の思い通りにならないときの苦し
みは、他の人への憎しみやねたみなどが混入している。 しかし、主の御手の中で、自我が砕
かれたり、肉が切り取られる(生まれながらの性質が変わる)ときの苦しみ、痛みは自分に向
いている。 「主と自分」だけの関係である。 そこを履き違えないようにすべきである。 とに
かく、日々、へりくだって絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、聖書を読み、
聖霊の流れに乗っていきたいものである。
 
 
★旧約聖書 箴言 4:23
   力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。
 
★旧約聖書 詩篇 139:23,24
   神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
   私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。




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