めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年4月14日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「互いに愛し合う」ことについての思考>



★新約聖書 ヨハネによる福音書 13:34
   あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしが
   あなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

★旧約聖書 ヨシヤ記 23:11
   あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。
 
★旧約聖書 箴言 27:5、6
   あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者がくちづけしてもてなすより
   は、愛する者が傷つけるほうが真実である。
 
●主イエスが十字架にかかられる前に、弟子たちの足を洗い、手ぬぐいで、ふき始められた。 
そして、「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも
また互いに足を洗い合うべきです。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするよ
うに、わたしはあなたがたに模範を示したのです。(ヨハネ福13:14、15)」と言われた。 主が
言われた新しい戒め、「互いに愛し合いなさい」は、クリスチャンは長年、取り組み実際、行な
ってきたことである。 
 
ところが、キリスト教会の歴史の中で起こった多くの出来事の中には、この主イエスの戒めか
ら離れ、むしろ神に忌み嫌われる悲しい出来事も多い。 主の言われた新しい戒めを、人の基
準による理解、判断が多くの悲しい結果をもたらしたと言えるであろう。 キリスト教の歴史や
今日のキリスト教国が、すべてとは言わないが、多くは、未信者に「神の愛」を伝えるどころか、
ともすれば「つまずき」になっていることは否めない事実であろう。 著者も様々な経験を経て、
痛感したことは、「自分はキリスト教を信じているのではなく、主イエス・キリストを信じている」こ
と、「主イエス・キリストと聖書は間違っていない」ということである。 
 
互いに愛し合うとは、どのようにすることが、主の望まれることであろうか。 聖書の中には、
兄弟たちが互いに愛し合っているかたちが書かれている。 例えば、使徒行伝時代、当時のエ
ルサレムの教会では、主イエス・キリストを信じる者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を
共有にしていた。 彼らは毎日、集まり、食事を共にし、心を一つにして神を賛美していた。 た
だ、この全面共同生活は、「互いに愛し合う」ことの実践ではあるが、必ずしもベストではなかっ
たようだ。 このエルサレム教会では後にいろいろな問題が起こった。 また、エルサレムにい
た貧しい兄弟姉妹たちを、小アジアやヨーロッパの兄弟姉妹たちが、献金、献物というかたち
で助けた。(使徒行伝27章) このようなこと、すなわち慰め合い、助け合って、愛し合うことは
クリスチャンだけでなく、一般的にも良いこととして言われ、行なわれていることである。 
 
「互いに愛し合う」具体的なこととして、主イエスは、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人に
もそのようにしなさい。(ルカ6:31」と言われた。 この「主のことば」において、自分が「良か
れ」と思って行なっても、人に迷惑がられるときがある。 「自分だったら、このようにしてもらい
たい。 だから この人にも してあげよう」と行なっても、押し付けになっている場合が結構あ
る。 自分という「人」を基準に考えているからだ。 すべての人のこと、心の奥深くまで、すべ
てご存知なのは、主イエス・キリストである。 だから、自分がその人に何をしてあげることが、
主の望まれていることなのかを、主に尋ね祈って、行なうのである。 そうしたなら、押し付けに
なることも高ぶった言動になることもないであろう。 たとえ、その人がそのときに反抗したり迷
惑がったとしても、後にはその人にとって必ず、主が益にしてくださるであろう。 また、たとえ、
結果的に自分の気付かないところで、主の望まれている心持ちで話したり行なったりできてお
らず、主が「良し」とされなかったならば、そのことを通して、主は自分の肉を切り取り、清め、
変えてくださるであろう。 我々が、主に尋ね、祈り求めて、人に話したり行なったりしたことが、
すべて主のみこころ通りであるとは言い切れない。 我々は、まだまだ途中、途上の者であり、
完全な者になっていないからである。 しかし、真剣に、主に尋ね、祈り求めて、「主のことば」
を行なおうとする、その心からの取り組みを主は見てくださっておられる。 そして、時々に応じ
て、一人一人に応じて、導いてくださり、練り清めてくださるであろう。
 
また、「互いに愛し合う」かたちとしてガラテヤ人への手紙2章には、パウロがペテロに面と向
かって抗議したことが書かれている。 ペテロがアンテオケの教会に来たとき、それまでに聖
霊の導きにより、ユダヤ人の慣習を捨てて、異邦人たちとも主にあって交わり、食事をともにし
ていたが、エルサレムの教会のヤコブのところから割礼派の人々が来ると、異邦人たちととも
にしていた食事の席から、誰にも気付かれないように、そっと離れていったようである。 「だん
だんと異邦人から身を引き、離れて行った」ということばから伺える。(ガラテヤ2:12) ペテロ
のそのような行動は、他の人たちに悪影響を与えた。 慰めの子バルナバまでもその偽りの
行動に引き込まれてしまった。 そのとき、パウロは、みなの面前で厳しい言葉で指摘した。
ガラテヤ2:14) ペテロの立場からすると、みなの面前で厳しく指摘されたことは、恥ずかし
かったことであったと思われる。 パウロの言うことばの内容が正しいだけでなく、パウロが「主
に対する愛」と「主にあっての正しい心」で言ったことをよく理解できていたから、なお更、自分
の行動にも恥ずかしさを覚えたことであろう。 また、パウロにそのように厳しい指摘をされた
から、聖書には記されていないが、ペテロは深い悔い改めに導かれたと思われる。 後に書か
れたペテロの手紙を読むとそのことが伺える。 
 
このように、時には愛する者に恥をかかせるようなこと、すなわち愛する者の心を傷つけてでも
真実な忠告をすることは重要なことである。 人と人との交わりの中で、何でも黙って相手の言
うことを聞くだけ、というのも一考する必要がある。 話しが、ともすれば人を評価し、非難して
いる内容が交わされることが結構、多いからである。 そのことばを黙って聞いていることが、
決して愛のある姿ではない。 自分は話しの内容に同意しないのに、黙って聞いたり、明確に
否定しないと、話している者は、聞いている者が同意した、もしくは、自分と同じ考え、見方だと
受け取ってしまう。 話しの内容によっては、話す人の罪をそのまま見過ごしてしまい、無意識
に、自分は他の人を非難していない、悪口を言っていないと心の奥でさらりと思い、表面だけ
相手に合わすという可能性もある。 それは決して、人を愛しているとは言えない。 パウロの
ように「主を愛する」という土台に、しっかり立っているなら、そういうことはないであろう。 しか
し、「互いに愛し合う」ことの中で、このことが結構、難しいことである。 
 
「主を愛する」という正しい土台があって、その土台に立っているからこそ、聖霊が働かれるの
である。 その土台に立っているとき、話しの内容によって、黙っていてはならないときは、主
が上からの知恵をくださって対応できるように導いてくださるであろう。 とにかく、その時々に
応じて、どのように対応したらよいのか、我々が、人に語ること、人に行なうことは、「主を愛す
る」という土台に立つことが必須である。 その土台に立ったとき、はじめて、「主にあって」語
る、「主にあって」行なうと言えるのである。 そして、主が言われる「互いに愛し合う」ことがで
きると思われる。 我々は、「主イエス・キリスト」を愛することで本当の意味で一致ができる。 
だからこそ、尚なお、「主を愛する」ことについても、本当に主の望まれるように主を愛している
のかどうか、自分自身を吟味していくことが重要であろうと思われる。 
 
いずれにしても、日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈
り、キリストとの交わりを深くしていき、聖霊の流れに乗って、主の導かれるまま歩んでいきた
いものである。
 
★旧約聖書 詩篇 133:1
   見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさで
   あろう。




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