めんどり通信/2013年3月31日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <終わりの時に どうあるべきかの思考> |
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★新約聖書 マルコによる福音書 13:13
また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え 忍ぶ人は救われます。 ★新約聖書 ローマ人への手紙 5:3-5 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が 練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この 希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神 の愛が私たちの心に注がれているからです。 ●主イエス・キリストが、弟子たちに終末について語られたマルコによる福音書13章は小黙示 録といわれる。 ここで主は、「神殿崩壊の預言」を語られ、そのようなことが起こる徴(しるし) とどうすべきかを弟子たちに語られた。 それは、「偽」が横行するから「人に惑わされないよう に気をつけなさい。」ということ、方々に「戦争」「地震」「飢饉」があるが、「あわててはいけない」 ということ、真のクリスチャンは政府、家族など、あらゆる種類の人々から厳しい迫害を受ける が、「最後まで耐え忍びなさい」ということ、荒らす憎むべきものが出現し、神殿に立つのを見 たなら、ユダヤにいる人々は「家に入ってはいけない」「山へ逃げよ」ということ、 偽キリスト、偽 預言者が出現して教えを語ったとしても「信じてはいけない」ということである。 そして、これら のことは、弟子たちだけではなく、「すべての人に言っているのです」と、主イエスは言われた。 (マルコ13:37) 上記のことは、そのことば通り受け取ることもできるが、現代に生きる我々は、たとえとして受 け取る必要があるように思える。 終末になると主が言われたように「神殿崩壊」が始まるとい うことである。 「神殿」とは「この方(キリスト・イエス)にあって、組み合わされた建物の全体が 成長し、主にある聖なる宮となる(エペソ2:20-21)」、「イエスはご自分のからだの神殿のことを 言われたのである(ヨハネ福2:21)」などの聖書のことばにより、教会のことであると思われる。 だから教会、クリスチャンが揺さぶられ、偽りの教えが横行して、真実なみことばの飢饉が起こ り、主キリストに従う者たちはあらゆる種類の人々から迫害を受けるということであろう。 教会 の多くは、変質していき、主が望まれる教会とは、はるかに違った形となるゆえ、そのような教 会を出よ、入るな、むしろ、「偽」が横行していないところに逃げよ、ということであろう。 多くのクリスチャンは、今は「世の終わりの時代」であると信じている。 だから、主イエス・キリ ストが「再臨」される時を、今か今かと待ち望んでいる人も多いと思われる。 クリスチャン以外 の人々は、テレビや新聞、書籍などでノストラダムスや他様々な予言で、「終末」が悲観的に思 われているらしいが、真のクリスチャンにとっては、「世の終わり」は、その過程、出来事は厳し くても、希望の時である。 さて、終末にある「再臨(再び主が待ち望む人を救うために来られること:ヘブル9:28)」につい ては、キリスト教会では、19世紀頃から新たな「再臨説」が言われている。 クリスチャンは艱 難に遭わないから、7年間の艱難の前に「地上再臨」があるという教えとか、艱難時代の中ごろ に「空中再臨(キリストが空中まで来られクリスチャンを携えあげられること)」があって、その後 3年半、この地上に大艱難時代があり、その終わり頃に「地上再臨」があるという二段階携挙 説という教えである。 どちらもクリスチャンは「厳しい艱難にはあわない」ということである。 それまでの時代では全く言われなかったことであるが、今や、多くのプロテスタントの教会が取 り入れているようである。 しかし、その説の出所は、『アメリカ宗教辞典』によると、1830年に マーガレット・マクドナルドから始まったという。 チャネラーであるというマーガレット・マクドナ ルドは、自分が見た幻についてイギリスのロバート・ノートン博士に話して聞かせたことから始 まっているという。 さて、著者も17年前まで所属していた教会で二段階携挙説を教えられ信じていた。 当時、「空 中再臨」に間に合わなければ、大艱難に巻き込まれてしまうと思い込んでいた。 だから一人 でも多くの人が救われてほしいと必死で伝道したし、「携挙」されるには、キリストのごとく作り変 えられていなければならないと清めに関しても必死で祈っていた。 今、思うに、そのような心 持ちは主が「良し」とされていたのではないだろうか。 ただ、思い出してみると、当時、「キリス トとつながる」ということよりも「再臨」の方が優先されていたように思う。 クリスチャンが「再 臨」信仰を持つことに問題はないが、間違った「教え」は、人によっては、微妙に道を逸らさせ られる危険性があるように思う。 著者は、教会を出てからも数年の間は、教会で用いてい たW・ニーなどの本をよく読んでいたので、二段階携挙説に疑いを持たなかった。 しかし、そ の後、何度も何度も聖書を通読して祈るうち、クリスチャンは大艱難を通ることにより、試さ れ、振るわれて鍛えられ、取り除かれるべきものは取り除かれる(人のうちにある不純物、時 にはその人自身)、と思うようになった。 そして、艱難時代を通る前から、一人一人に応じて、 主は試練や苦難を通して訓練なさり、それぞれに応じて真のキリストの体の器官としてふさわ しい者に整えてくださると思うようになった。 実際、著者は、今も訓練を受け続けている。 そ の中で「忍耐」を身につけさせていただいているように思う。 特に2千年に入って、世がますます悪くなっていく中、聖霊の流れに乗って進んで行くうち、「再 臨」があることは聖書から事実であると信じているが、それがいつあるかに注目するより、主と しっかりつながることに目を留めていくべきだと思うようになった。 主としっかりつながるため に、自分は「主を愛している」が、主が自分を見られて「主を愛する者」と見られているかどう か、主が自分に何を求めておられるのか、・・など要は、主を愛し、主のみこころを知っていくこ とを優先すべきだと思うようになった。 終末にどのようなことがあるのか、今、現在、何が起 こっているのかを知ることは大切ではあると思う。 主の警告を受け取ることは、本当に大切な ことだと思う。 しかし、著者の場合、それを知ったからと言って、自分で気をつけても、自分の 力では避けきれない、逃げ切れない、無理だということを重々知っている。 少しの悪霊の風 に吹き付けられただけで、コロッと騙され、倒れかかったという痛い体験を何度かしたことがあ る。 だからこそ、主キリストを愛し、主にしっかりつながって、主に守られ、聖霊の導きを徹底 的に得ることの方が重要と考えている。 ヤコブの手紙4章14節に「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からない」と 書かれている。 「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」の「最後」は、「主にお会いするとき」ま でであると考えている。 すなわち、「再臨」が早いか「死(寿命が尽きる)」が早いかは、主が ご存知である。(マルコ13:32) 「足が地についた生き方」という言葉があるが、主は、一人一 人が「キリストに確実につながった生き方、歩み方」をすることを望まれているのではないだろ うか。 そうしていくなら、たとえ悪霊の風が吹いて「偽」が押し寄せてきても、見破ることがで き、そこから逃げる力さえくださり、厳しい迫害、攻撃があったとしても、主が支えて立たせてく ださるであろう。 また、自分だけでなく家族、家がしっかりと主に確実につながることにも目を 留めるべきであるとも考えている。 救いは、一人一人のことだが、主は家族単位、家単位で も見られているからだ。 いずれにしても、いつどのような状態であれ、一人一人に応じて主が望まれている状態でいる こと、具体的に言うなら、一人一人が主を愛し、主キリストに確実にしっかりつながっているこ と、その上で主の御心を知って聖霊の導きに従って行くこと、そのようであることが、「気をつけ て、目を覚ましている」ことになるのではないだろうか。 とにかく主の御前にへりくだって、絶え ず祈っていくこと、神のことばである聖書を読み、主が語って下さろうとしているか細い御声を 聞こうと(霊)の耳、心を絶えず主イエス・キリストに向けることをしていきたいものである。 ★新約聖書 テサロニケ人への手紙 第二 3:5 どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいます ように。 ★新約聖書 テサロニケ人への手紙 第一 5:6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。 |
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