めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年3月3日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「主のことば」「主のみこころ」が与えられたとき確認して確信する:ギデオンから学ぶ



★旧約聖書 ヨブ記 33:14 
   神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。
 
★旧約聖書 士師記 6:17
   すると、ギデオンは言った。「お願いです。私と話しておられるのがあなたであるというしる
   しを、私に見せてください。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 10:8
   ・・「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」・・
  
聖書を読むと、旧約時代には、主が人に直接、語られたことが書かれてある。 アブラハ
ム、イサク、ヤコブ、モーセ、ギデオン、サムエル、ダビデ、・・・預言者、王など他大ぜいの人
たちがいる。 新約時代にもパウロが復活されたイエスから語られている。(使徒行伝9章) 
今日、我々には「神のことば」である「聖書」が与えられている。 聖書には、万人に語られてい
る「ことば」があり、ある人にある時に語られている「ことば」がある。 天の御国への道をしっ
かりと踏み進んで生きていくためには、聖霊の導きが必要であり、主が語られる「主のことば」
が必要である。 イエスも言われた。 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一
つ一つのことばによる。(マタイ4:4)」 また、「聞く耳のある者は聞きなさい。(マルコ4:9)」と。 
我々一人一人が、永遠の御国へ向かう者としての生き方は、具体的なもの、実際的なもので
あり、一人一人みな違いがある。 だから、人によって、その時々に必要な御言葉も、その意
味の深さも違うものである。 
 
さて、主が我々に語られる方法としては、今日も、人に直接、語られる場合がある。 ただ、旧
約時代のアブラハムや預言者たちのような感じではないかもしれないが、それでも主が直接、
人に語られることはある。 夢や幻、霊的感覚などの方法でも語られる。 また、神の霊感を受
けて書かれた「聖書のみことば」を通して語られる。 神の霊感を受けた聖書、すなわち「神の
ことば」は、この地上で主が定められた道を歩むための人生の基準であり、確実にゴールであ
る「天の御国」に導くための指針である。 神のみこころの基本的なもの、原則的なものが記さ
れている。 
 
「聖書のみことば」を通して与えられることにも様々な形があると思われるが、著者も「聖書の
みことば」から、著者に直接、与えられた「みことば」が幾つかある。 その中の一つ。 信仰に
固く立って間もない頃、家で聖書を読んでいたときのこと。 聖書を通読していて、第二コリント
人への手紙8章9節「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すな
わち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがた
が、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」のところに差し掛かったとき、涙がボロ
ボロ出てきた。 「おかしいなぁ?」と思いながら、9節の冒頭からまた読み返した。 すると、ま
た同じようなことが起きた。 自分に問いかけてみた。 「今、悲しいのか?何か感動したの
か?」 答えは「否」であった。 3回目、もう一度、この節のみことばの冒頭に戻って読み始め
た。 やはり、読み進めていくと涙がボロボロ出て来た。 ボロボロ出てきながらも、この一節を
読み通した。 そして、「主よ、今、このみことばの意味がよくわかっていませんが、このみこと
ばが私の上に成就しますように。」と祈った。 その後、だいぶ経って、信仰生活を振り返って
みたとき、本当にこの「聖書のみことば」を著者の上に成就してくださっていると痛感し、心から
感謝の祈りをしたことを今も覚えている。 しかし、同時に、このみことばの成就は、まだまだ
深みがあると思ったので、「いよいよ深みに成就してください。」と祈ったものだ。 
 
さて、その他、牧会者からの牧会のことばや兄弟姉妹との交わりなど、人を通して主は語られ
る。 また、出来事などを通しても主は語られることがある。 この出来事の中には、「神の摂
理」、すなわち神ご自身のご計画のままに、出来事さえ神が直接、采配され導かれることがあ
る。 一般的に「偶然」と思われる事であっても、明確な「神の摂理」の場合もあり得る。 「神の
摂理」かどうか、はっきりわからない事でも、主はご自身のみこころを伝えようと、その出来事
を通して「語っておられる」ことが多々ある。 我々が、自分が歩んできた道、今後、歩もうとし
ている道、すなわち人生のすべてに主に介入していただくならば、何一つ、主は無駄になさら
ない。 益にしてくださる。(ローマ8:28)
 
このように今日においても、主はいろいろな方法で我々に語られている。 いや語ろうとされて
いる。 我々にご自身の御心を知らせようとしてくださっている。 どのような方法にしろ、主が
語られる「主のことば」は、聖霊の導き、働きがあってこそ、「主が語られたことば」と確信でき
るものである。 どのような方法にしろ、「主が語られたことば」のひと言でも、素直にへりくだっ
て受け入れるならば、その「ことば」は、その人を立て上げ、生涯その人を支えるものとなる。 
 
ただ、「主が語られたことば」が、本当に「主からのことば」であるのかどうかを吟味し、確認す
ることも大切である。 主は、先に書いたようないろいろな方法、かたちで語られるが、自分の
願望を含んだ思い込みや時には、悪しき霊が巧妙に主のことばと偽って語る、ということもな
いとは言えない。 その可能性は結構あるように思われる。 だから、内容によっては、「語ら
れたことば」が本当に、「主からのことば」かどうか「裏づけ」を求めることは必要だと思われる。
 
このことでは、士師記6章〜8章に登場するギデオンから学ぶことができる。 主がギデオンに
「イスラエルをミデヤン人の手から救うために、わたしがあなたを遣わす。・・わたしはあなたと
いっしょにいる。・・」と語られたとき、「私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私
に見せてください。」と願い出た。 主はその願いに答えてくださったので、ギデオンは、「語ら
れたことば」が主からであったと確信して、主が言われたことを行なうことができた。 その後、
イスラエルの陣容が整ってミデヤン人たちと戦うにおいて、また、「主のことば」「主のみこころ」
の確認のため、しるし、裏づけを主に求めた。 「羊一匹分の羊毛だけに露が降り、土はまっ
たく乾いている」ということを求めた。 通常、そういうことはあり得ないことだったからだ。 翌
朝、そのとおりになっていた。 続いて、もう一度、今度は逆のしるし、「羊毛が乾き、土が濡れ
る」を求めた。 翌朝、そのとおりになっていた。 ギデオンは何度も「主のことば」の確認をして
いる。 主もそのギデオンの求めに答えてくださっている。 
 
このように、「主からのことば」が語られたとき、内容によっては、本当に主が語られたかどうか
の裏づけ、しるしを求めることは、主が「良し」とされていると思われる。 本当に「主からのこと
ば」かどうか確認することは、むしろ大切なことである。 著者は「主からのことば」が与えられ
たときには、内容によっては必ず、主に裏づけを求める。 特に、聖書のことばや御言葉の箇
所による裏づけを求める。 そうして、主に何度も祈って尋ねる。 そうすると、聖書の御言葉
の箇所なり、「偶然」とは思えない出来事なり、その「ことば」に関することでの状況なりで裏づ
けをくださる。 そして、「主からのことば」として受け取るようにしている。 「ことば」を素直に受
け取ることは当然であり大切だが、自分の思いや願い、考えが入っていないことを確認するた
め、用心することに越したことはないと考えている。 
 
ヨハネによる福音書14章26節「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる
聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを
思い起こさせてくださいます。」と書かれている。 真に主イエス・キリストを信じる者たちに、聖
霊は働いてくださって、必要なときに一人一人に応じて、主の方法で「主からのことば」を与え
て、「主のみこころ」を知らせてくださる。 我々は、聖霊によって「主からのことば」として受け
取ることができる。 「ことば」の意味も深さも、主が定めておられる「時」にわからせてくださ
る。 それは頭脳でわかるというものではなく、我々の心の内に分からせてくださるものであ
る。 深いところで、ズンと「わかった」と言えるものである。 また、「わかった」というとき、その
人のものとなっていることが多い。 いずれにしても、我々の上で、聖霊が存分に働かれるた
めにも、日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、聖書
を読み、真剣に主のみこころを求めていきたいものである。 そして、主に祈って、霊の耳を開
いていただき、神の御声を聞こえるように、また聞き逃すことのないようにしていただきたいも
のである。 そして、神の呼びかけに応え、従っていきたいものである。

★新約聖書 エペソ人への手紙 5:17
   ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
 


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