めんどり通信/2013年2月24日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <一人一人に応じてのアブラハム、イサク、ヤコブの経験を通ることが必要> |
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★新約聖書 マタイによる福音書 22:32
『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者
の神ではありません。生きている者の神です。
★旧約聖書 詩篇 119:71
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
●神がモーセを召されたとき 「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコ
ブの神である。」と仰せられた。 一般的に教会では、「アブラハム、イサク、ヤコブ」の経験は、
主イエスを信じるクリスチャンの経験になるべき必要があると言われている。 簡単に三人につ
いて書いてみる。
アブラハムの個性と言えば、神に対する素直さ、従順さであろう。 それゆえか、神はアブラハ
ムに約束のことばを語られた。(創世記12:1-3、7、13:15-18、15:1-21、17:9-14、18:10、22
:16-18) アブラハムは最初から「信仰の父」と呼ばれるほどの「信仰」ではなかったが、多くの
訓練、試練を受けて磨かれていった。 多くの試練を受けたとき、主に対して、とにかく素直に
「主を信じた」。 相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、行き先も知
らずに出発した。(ヘブル11:8) 「主を信じた」からだ。 ロトとの間に、それぞれの羊の牧草を
めぐって争いが生じ、ロトと分かれるとき、選択をロトに優先させた。(創世記13章) アブラハム
は、自分の行くべき道を素直に主にゆだね、「主を信じていた」からだ。 アブラハム99歳、不妊
のサラ89歳のとき、主の御使いが「来年の今ごろ、妻のサラに男の子が生まれる」ことを告げ
に来た。 とても信じることができないことでも、神の約束を素直に「信じた」。 「アブラム」から
「アブラハム」へ改名せよ、と主が言われると、すぐに従い、「割礼を受けよ」と主が言われると、
すかさず、彼の家のすべての男たちに、自分と一緒に割礼を受けさせた。 ひと言で表現する
なら「素直に主を信じた」人である。
アブラハムへの試練は、飢饉、ロトとの間の争い、サラの不妊、その他多々。 そして最大の
試練は、100歳で与えられたひとり子「イサク」を神に全焼のいけにえとしてささげるというもの
だった。 すべての試練に、最初は失敗もしたが、イサクをささげるときには、躊躇せずに、
翌
朝早く、見事に主の目にかなう行動をし、主の御告げ、「
わたしは確かにあなたを大いに祝福
し・・・。」ということばをいただいた。(創世記22:16-18) 祝福は次のイサク、ヤコブへと受け
継がれていった。 そして、その神の祝福は、今日まで主イエス・キリストを信じる者たちにへと
受け継がれている。
イサクの個性と言えば、穏やか、柔和、平和主義ということであろう。 イサクは、「主の祝福を
受けて」経済的に非常に繁栄していくと、ペリシテ人たちから、ねたみによる嫌がらせを受けた。
アブラハムが掘った井戸は塞がれ、出て行くよう、迫られると、イサクは彼らの要求に従い、
移動して、アブラハムがかつて掘っていた井戸を、再び掘り返した。 すると、今度は、ゲラル
の羊飼いたちが来て、イサクが掘った井戸を自分たちのものと主張した。 イサクは、ここでも
争わず、また移動して、別に、井戸を掘った。 こういうことが続いた。 最終的には、妨害され
ることなく、水を確保することができたが、イサクは決して争うことをせず、いつも相手の要求
に従った。 聖書を読む限り、憤慨を抑えて従ったというようではない。 ひと言で表現するなら
「穏やか」な人である。
またイサクはリベカと結婚して、20年間、子どもができなかった。 20年経って、ようやく主に祈
願して、エサウとヤコブが生まれた。 子どもたちがリベカの腹の中でぶつかり合うようになっ
たとき、リベカは主の御心を尋ねた。 「兄が弟に仕える」と主は仰せられた。 そのことをイサ
クはリベカから聞いていたかどうかは定かではないが、いずれにしてもイサクは、猟の獲物を
好んでいたからという理由で兄エサウを愛した。 そして、最期にエサウを祝福しようとした。
リベカの介入で、ヤコブがイサクをだますという方法ではあったが、長子の権利は、「主のこと
ば」通りになった。 この後、イサクはヤコブを祝福して、リベカの兄ラバンのところへ送り出し
た。 このようにイサクの「穏やかさ」は、時には、「頼りなさ」、「のんびりし過ぎる」、「弱さ」が
感じられることもあった。
イサクへの試練は、飢饉。 ペリシテ人やゲラルの羊飼いたちからの嫌がらせ。 割と少ない。
創世記でイサクに関して書かれている聖書の箇所も三人の中で極端に少ない。 それでも、す
べてアブラハムがお膳立てしたものの、イサクはアブラハムのものをすべて受け継いだ。
ヤコブの個性といえば、ずる賢さ、強さであろう。 たとえ、神のみこころであっても、それを得
ようとするときに、自分の力と知恵で得ようとする強さがあった。 その表われが、長子の権利
を一杯の食物と引き替えに売るようエサウに求めたこと、母リベカの支持があったとはいえ、
父イサクをだまして祝福を奪い取ったことである。 しかし、エサウに命を狙われ、逃亡の旅が
始まった。 そのようなヤコブに主は夢の中で会ってくださり、アブラハムとイサクに語られた約
束のことばを語ってくださった。 その上、「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ
行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し
遂げるまで、決してあなたを捨てない。(創世記28:15)」という「ことば」を付け加えてくださった。
しかし、伯父ラバンのところでヤコブは、ラバンの娘ラケルを妻とするために14年間ラバンに仕
え、結果的に約20年間ラバンに仕えた。 当初、少なかったラバンの家畜をヤコブが飼いだし
て主の祝福によって増えていき、ヤコブの提案と長年の知恵でヤコブ自身の羊とやぎ、すなわ
ち財産を増やしていった。 ヤコブ自身は、自分の知恵で増やしたとは思っていなかったようで
ある。(創世記31:9) 事実、ことば通り、主がヤコブとともにいてくださり、守ってくださっていた。
また、本来、エサウと対照的に天幕の周りで働くのを常としていたヤコブにとって、ラバンのとこ
ろでの生活は、相当な苦労があったと思われる。 その後、「あなたの生まれた国に帰りなさい」
との「主のことば」により大所帯となって兄エサウがいるカナンの地へ出立した。 兄エサウとの
確執で恐れから帰途についても心休まるときがなかった。 近づいてきたところで、「ある人」と
格闘した。 そこで自我が砕かれ、「ヤコブ(押しのける者)」から「イスラエル(神の皇太子)」と
新しい名が与えられた。 エサウと平和に再会した。 イスラエル12部族となる12人の子どもた
ちにも恵まれたが、ヤコブには子どもたちのことなど、その後も次々と問題が浮上した。 130歳
でパロの前に立ったときまで、ヤコブが通ってきた道すべてが訓練、試練だったといっても過言
ではない。
以上から見ると、それぞれの個性、働きに応じて、神は様々な経験を通らせられた。 それら
の経験は、彼らにとって「訓練、試練、試し」となった。 そうして、神がご計画されている過程を
余すところなく通らせて、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれるように完成さ
れた。 アブラハムを通して「父なる神」、イサクを通して「子なる神」、ヤコブを通して「聖霊なる
神」をあらわされる。 アブラハム、イサク、ヤコブと三人であるが、また一人でもある。 アブラ
ハムの中にイサクとヤコブのきよめられた性質があり、イサクの中にアブラハムとヤコブのき
よめられた性質があり、ヤコブの中にアブラハムとイサクのきよめられた性質がある。
こうして見ると、我々はヤコブのような道は歩みたくないと思うが、むしろこのヤコブの道がなけ
れば神の民とは言えない。 「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むち
を加えられる」と書かれている。(ヘブル12:6) 我々クリスチャンは、アブラハムが生涯を通し
て、父としての神を認識し体験したこと、イサクが生涯を通して、すべてを神から受け継いだこ
と、ヤコブが聖霊の導きにより、自我が砕かれ、肉(生まれながらの性質)が切り取られて、神
が「良し」とされるまできよめられたこと、これらをその人に応じて経験させていただくことが必
要である。
一人一人の取り扱いは、その人の個性によって違うようである。 ちなみに著者は歩んできた
道を振り返ってみると「ヤコブ」である。 身近に「イサク」のような個性の者がいる。 彼を見て
いると、苦しいときは「イサクのように少ない試練でいいなぁ」と思ったことがある。 しかし、著
者が「イサク」のような取り扱いを受けてもビクともしなかったから、やはり波乱万丈でも「ヤコ
ブ」のような取り扱いがあったから、今日の自分があると主に感謝している。 なお、今はまだ
途中であり、今後も、まだまだ様々なことがあろうと思われるが、いよいよ、主にしっかりとつな
がっていきたいと祈っている。
主は、ご自身が召し、選ばれている一人一人に、また、真に主を求めている一人一人に、その
人の個性に応じた経験をさせてくださるであろう。 そのような経験を通して、主が決めておら
れるその人に応じた「信仰」「神が与えようとされるすべての財産」「きよめ」を獲得した者が、
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのであ
る。」と言えるであろう。(ガラテヤ2:20) そして、そのような者の個々の個性を活かして(生か
して)、主が望まれる真の教会の建て上げを、主がなさるであろう。 主の御前にへりくだって
聖霊の流れに乗りたいものである。
★新約聖書 ヘブル人への手紙 12:2
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
★新約聖書 ペテロの手紙 第一 3:4
むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを
飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 |
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