めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年2月17日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<初穂:(先に救われた者の主に対する心と態度)>



★新約聖書 使徒行伝 16:30、31
   先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。 ふたりは、
   「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。 
 
★新約聖書 ルカによる福音書 19:5
   イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降り
   て来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
 
聖書では「初穂」は重要な意味を持つ。 「初穂(ビクリーム)」の原語は、「べコール」と言っ
て、「初子あるいは長子」という意味だという。 出エジプト記13章2節「イスラエル人の間で、
最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわた
しのものである。」と書かれている。 他にも重要な意味が多々あるが、一般的に、地域や家、
家族で最初に救われた者を、その地域での「初穂のクリスチャン」、その家、家族での「初穂の
クリスチャン」という言い方をする。 今回は、「先に救われた者」としての「初穂」を見ていきた
いと思う。
 
プロテスタントのキリスト教会は、「救い」について、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの
世に来られた。(Tテモテ1:15)」こと、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために
死なれたこと(Tコリント15:3、4)」など、基本的なところは、どの教会も一致するところである。 
ところが、細々したところでは、教会によって違いがある。 一旦、主を信じたら、その「救い」
から決して漏れることはない、という教会も多いようである。(ヨハネ福3:36、5:24、6:47、ロー
マ10:9-13、15:4 ) しかし、聖書を通読していくなら、そのような楽天的な受け取り方は危険で
あると思われる。 
 
同じように、使徒行伝16章で、パウロが看守に言った「主イエスを信じなさい。そうすれば、あ
なたもあなたの家族も救われます。」ということばも、家族、家の中で誰か一人が救われたなら
ば、必ず、どんなことがあっても家、家族の全員が救われるというのは楽天的な受け取り方で
ある。 まして、自動的に救われる、というのは危険な受け取り方であると思われる。 ここは、
ギリシャ語(原語)では、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたは救われます。あなたの家
族も。」と訳せるという。 ギリシャ語では、「救われます」ということば(動詞)は、あなたの家
族も」より「あなたも」の方、看守に強調点がおかれているという。 看守の信仰が彼の家族を
救ったという意味ではなく、彼の身に起きたことと同じことが家族にも起こるチャンスが開かれ
ていたという意味であるという。 パウロは、「信じなさい」「救われます」も、看守自身に語っ
ており、家族の一人一人も、「主イエスを信じる」ならば、彼らも「救われる」ことだという。 使徒
行伝16章32節33節にパウロは看守の家の者全部に主のことばを語った、彼とその家の者全
部がバプテスマを受けた、と書かれているので、パウロが語ったことばは、看守と看守の家族
の上に、成就した。 看守はピリピにおける初穂となった。
 
使徒行伝10章に登場してくる異邦人コルネリオの救いの場合。日ごろ、コルネリオは神の御前
にへりくだっていた。 御使いが「コルネリオ、あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは
神の前で覚えられた。」と言われた。 そのことを家族や親族、親しい友人たちに話すと皆、コ
ルネリオの言うことばを信じた。 そして、皆、ペテロの話しを聞こうと、へりくだり、ペテロを迎
えている。 そして、ペテロの話を聞いている途中で、みことばに耳を傾けていたすべての人々
に、聖霊がお下りになった。 コルネリオはローマ人キリスト者の初穂となった。
 
ルカによる福音書19章に記されているザアカイの場合。 相当な嫌われ者の取税人のかしら
ザアカイの家にイエスの方から「ザアカイ。・・・きょうは、あなたの家に泊まることにしてある
から。」と声をかけてくださり、ザアカイの家に入られた。 そして、きょう、救いがこの家に来
ました。」と言われた。 「人はうわべを見るが、主は心を見る。」 主イエスはザアカイが、自分
の財産の半分は貧しい人に施し、不正の取立てをした分は4倍にして返すという、具体的な真
の悔い改めをすることを知っておられたと思われる。 主が言われた「泊まる」ということばは、
原語では、ヨハネによる福音書で主イエスが言われた「わたしにとどまりなさい(とどまり続けな
さい)」「わたしの愛の中にとどまりなさい」などと言われた「とどまる」と同じ動詞が使われてい
るという。 また、「泊まることにしてある」というしてある」は、神ご自身の方が必ず「〜しよ
うとしている」ことを表す動詞が使われているという。 このようなことから、ザアカイはキリスト
にとどまり続けたであろうと思われる。 だから、ザアカイの家族も一人一人が、主を信じて救
われたと推定できる。
 
こうして見ると、看守もコルネリオもザアカイも主に対しての信仰が明確であり、へりくだってい
る。 そして、主なる神を畏れ、主のみこころを行なおうと実行する者であった。 彼らの家、家
族においても、彼らは、神に喜ばれるキリスト者、クリスチャンの「初穂」となっていたようだ。 
彼らの日々の生き方が、主が良しとされる「証し」となっていたと思われる。 だから彼らの家、
家族の者たちは、彼らのいい影響を受けたと思われる。 
 
また、レギオンと名乗る悪霊どもを追い出していただいた墓場に住んでいた男にイエスが語ら
れた「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくだ
さったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。(マルコ5:19)」ということばの「あ
なたの家族」ということばは、原語では「あなたの人々」となっており、一般的にいう家族だけで
なく、自分に属する人々、という意味があるという。 看守もコルネリオもザアカイも自分の家族
だけでなく、親族、知人、その地域の人々にとって主の喜ばれる「初穂」となったようだ。
 
ところが、彼らと反対に一家の中で良い初穂となり得なかったロトの場合。 ロトは、「信仰の
父」と言われたアブラハムの甥である。 ロトは、アブラムが神の召しでカルデアのウルを出発
し、カナンの地に向かった時、一緒に行動を共にした。 ところが、アブラハムとロトの間に、そ
れぞれの羊の牧草をめぐって争いが生じ、二人は分かれることになった。 そのとき、アブラハ
ムは自分の行くべき道を神にゆだねた結果、ロトに優先して選ばせた。 ロトは、ソドムが主の
園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていたので選び取った。 しかし、ソドム
の人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。(創世記13章) 「ロトはソドムの
門のところにすわっていた」と書かれているように、ソドムである程度の高い地位を得られてい
たようである。 また、ふたりの御使いが来たとき、ソドムの人々が彼らに対して、罪を犯そうと
来た時に、ロトはふたりを守ろうとしたが、自分の未婚の娘を差し出そうとした。 また、娘たち
をめとった婿たちに、「主がこの町を滅ぼそうとしておられるから、一緒に出て行こう。」と言っ
ても、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。 ロト自身、脱出をためらっていたのだ
から、家族に、御使いの真実なことばが通じるはずはない。 日ごろのロトの神に対する信仰
の表われを垣間見ることができる。 ようやく、一緒に出た妻でさえ、「うしろを振り返ってはい
けない。」と言われた御使いのことばを無視するかのように、後ろを振り返って塩の柱になっ
た。(創世記19章) 
 
ロトの家、家族の中では、言うなれば、最初に救われ、本当の意味で神を信じたのはロトと言
えよう。  最初の者、「初穂」の、主なる神への信仰態度、また、どれだけ自我が砕かれ、肉が
切り取られているかなどが、周りの者に影響を及ぼすことがある。  ロトは、自分の基準、目
に見えるところで考え、行動し、自分の身を守るために表面を巧みに合わそうとした。 主に従
うことに徹底できないロトの言動は、決して周りの者たちにいい影響を与えることはできなかっ
たようだ。 まして、ソドムのような罪の町で家族が悪い影響を受けるのを阻止するためには、
明確な主に対する敬虔な心からの言動が必要であっただろう。 結局、救いは 一人一人の問
題、責任ではあるが、ある意味、家、親族、友人、など広い意味での家族、家の「初穂」となっ
た人の影響は大きい。 
 
「初穂」であれ、二番目三番目に救われた者であれ、「どのようなクリスチャン」であるかが重要
である。 日本の場合、クリスチャン人口はいつまで経っても1%弱と本当に少ない。 また、主
イエス・キリストを信じ受け入れ、主なる神に従おうとしたとき、様々な壁にぶち当たる。 生粋
の仏教国でもないのに、仏教国らしい行事が生活の中に入り込んでいる。 神道と仏教が混
合、融合したような行事が行なわれても疑問にも思わないくらい深く深く生活の中に入り込んで
いる。 そのような中で、違う行動を取れば、異端視され、田舎によっては、昔ほどではなくても
「村八分」的な視線を今も浴びせられる。 そのような中で、「世」と妥協せずに生きていくこと
は大げさな言い方かもしれないが、地域によっては至難のわざである。 だからと言って、ロト
のように、若干でも「世」と妥協するならば、そこが「悪霊」が「神から離す思い」や「偽りの教え」
を吹き込んでくる入り口となる。 自分は、何とか信仰を全うしたとしても、他の者、特に家族、
親族、知人たちが「信仰」を持つのを妨げる可能性がある。
 
また、かと言って、律法的に、クリスチャンだから、聖書に書いているから、「・・してはいけな
い」「・・しなければならない」と、行なったとしても、そのことを主が、その時にその人に望まれ
ている「主のみこころ」だったと言い切ることはできない。 主のみこころを知ることは結構、難
しいが、主は心から主を求めてくる一人一人に応じて、自我を砕き、肉を切り取り、ご自身の
みこころ、みことばを行なわせようとされる。 だから、我々は、いかに深く主キリストの中にと
どまるかが大切である。 日々、いかに、主と交わり、主とともに歩むかが重要になってくる。 
 
そのために我々ができることは、とにかく主の御前にへりくだって、絶えず祈っていくこと、神の
ことばである聖書を読み、主が語って下さろうとしているか細い御声を聞こうと(霊)の耳、心を
絶えず主イエス・キリストに向けることであろう。 そして、祈りながら、聖霊の流れに逆らわず、
肉の力で流れの速さを変えず、すべてを主にゆだねていくことであろう。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:5 
    わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の
    中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたが
    たは何もすることができないからです。



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