めんどり通信/2013年2月3日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <ダビデとサウル(一方は弱くて苦しみ、同時にもう一方は肉の強さで我を通す)> |
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★旧約聖書
イザヤ書 63:9
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわ れみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。 ★旧約聖書 詩篇 71:20
あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地
の深みから、再び私を引き上げてくださいます。
★新約聖書 第一ペテロの手紙 4:1
このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心
構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを
断ちました。
●神に愛された王というなら、ダビデの名が挙がる。 40年間、神に愛された王であったが、
すんなりと王座に就いたわけではない。 イスラエルの初代王はサウルであった。 サウルは、
預言者サムエルを通して、王と任命されたが、主のことばに不忠実だったゆえ、ついに神に
よって王位から退けられた。 主の霊はサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおびえさせた。
神からの悪い霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひくとサウルは元気を
回復して、良くなり、悪い霊は彼から離れた。(サムエル16:14、23) しかし、ダビデが巨人ゴリ
ヤテを倒して英雄になり、人からも神からも愛されるようになると、サウルは嫉妬した。 ダビデ
を殺そうと執拗に追いかけていった。 サウルの心はダビデを恐れていたようであるが、サウ
ルの行動は恐れから出たものとはいえ、強さが感じられる。 ダビデを殺すことを、自分の家
の者たちに告げ、ある意味、強さを誇示しているようにも見受けられる。 また、自分の威信を
保つ、ねたむ、自分の気持ちを押し通す、自分の考えを貫く・・・とにかく、自分を優先する者
だった。
一方、ダビデは神に選ばれ、神に愛され、王としての油注ぎを受けたが、サウルから命を狙わ
れ、逃げなければならなくなった。 山地をあちこちとさまよったり、野宿したり、洞穴で過ごし
たりし、気が狂ったまねをしたりした。 1年4ヶ月も敵の地(ペリシテ人の中)で過ごしたりもし
た。 助けたケイラの人々に裏切られ、ジフの人々にも密告されるなど、苦難に続く苦難の連
続だった。 ダビデは自分の弱さを嫌というほど身にしみて、必死に神に助けを求めている叫
びが詩篇に書かれている。
一方は、肉の強さで自分の思いを押し通し、その引き替えのごとく、一方は、弱くて苦しむ、と
いうことがある。 一方は、自分の好き勝手に生きている罪人、その罪の引き替えのごとく、一
方、イエスは我々の罪のために地の汗を流すほど苦しまれた。
また、一方は、神と何の関係もなくても経済的に豊かで、大きな困難もなく思う存分、人生を謳
歌し幸せそうな生活をしている人がおり、またその一方では、神を信じ救われているのに、苦
難に継ぐ苦難を、試練に継ぐ試練を受け、なかなか安堵する余裕もない、ということがある。
ちょうど、ルカによる福音書16章に出て来る金持ちと貧乏人ラザロのようである。
このようにして見ると、両者が全く正反対のようである。 一方は、自分の我を通し、一方は、
その引き替えのごとく、苦難を受ける、ということは、事実あることだ。 また一方は、自分の評
判を落とさないため、人の目を気にするも神を無視して好き勝手に生き、それなりに幸せに暮
らし、同時にもう一方は、その引き替えのごとく、霊の攻撃、霊の圧迫で苦しむ、ということも現
実にある。 しかし、人が主なる神、イエス・キリストとどのような関係にあるかということによっ
て、その人が歩む道も行き先も違ってくる。
詩篇73篇を見るとアサフという人がこのような疑問と矛盾について正直に書いている。 そし
て、そのことを主に尋ね、主から答えをいただいている。 アサフに見習わなければならないこ
との中の一つは、多くのクリスチャンが、世の中のいろいろな矛盾や信仰生活の中での様々な
疑問、矛盾を感じたとき、クリスチャンぶって自分で「クリスチャンらしい良い答え」を出して納
得してはいけないということであり、それらの疑問や問題、矛盾をへりくだって正直に主に申し上
げて尋ねるという態度である。 アサフという人は、音楽の才能を主から与えられていたようで、
歴代誌の時代、エルサレム神殿で聖歌隊のリーダーだった。 しかし、問題なく平安で務めをし
ていたわけではなかったようだ。
このアサフが主から教えられたことが、上記のことの答えとなるだろう。 人は必ず死ぬ。 「人
間には、一度死ぬこと」は神が定められていることであり、このことについては、認める認めな
い、納得するしないに関わらず、現実に我々は「人の死」を見ている。 しかし、死ぬことと同時
に「死後にさばきを受けること」も定まっている。 ただ、このことは人には見えないことであり、
臨死体験をした者も完全に死んだわけではなく、死んでこの世に帰ってきた者が一人もいない
ので、なかなか、そのことばを信じようとしない者が多い。(Uコリント5:10) それでも、人が信
じる信じないに関わらず、人間は、必ず、「死後にさばきを受ける。」
アサフは、聖所に入り祈るうち、神と何の関係もない、神を無視した「一方の者たち」は滅びる
ことを明確に示された。 そして、自分が今、生きているのは主によって生かされているのであ
り、苦難の中にあるときも、神は沈黙していたのではなく、ただひたすら、アサフの右の手を
しっかりつかまえておられたことを知った。(詩篇73:23) そして、やがて「時が来た」とき、主の
栄光に与る者とされることを悟った。 同時に、アサフは自分自身の愚かさを知った。 それで
「私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。・・地上では、あなたのほかに
私はだれをも望みません。神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。・・(詩篇73:22-2
8)」と告白できた。 主がそのような告白や祈りができるよう導いてくださったのである。
確かに、人はこの地上でどのような生き方をしたとしても、すべての人に生命の「終わり」が来
る。 真の神とは関係のないところで、この地上で荒波なく安泰に過ごした者であっても、苦労
の人生だった者もどのような者も皆、「死後にさばきを受ける。」 ただ、その「終わり」「寿命」は、
人が決めるものではない。 なぜ、幼いときに亡くなるのか、なぜ、大病を患いながらでも長生き
するのか、なぜ、不慮の事故に遭って亡くなるのか、なぜ、大きな災害に遭って命を落とすのか
なぜ、なぜ・・・と「終わり」「寿命」についても、わからないことが多い。 ある意味、そこは神
の領域である。 一人一人に応じて、「終わり」があり「寿命」の長さがある。 そして一人一人に
応じての「さばきを受ける。」 我々は、主なる神イエス・キリストと正しい関係を持ち、主のふと
ころに抱かれ導かれる「一方」の者になりたいものである。(イザヤ書40:11)
我々の罪と「引き替え」に死んでくださり、3日目によみがえられ、今も生きておられる主イエス・
キリストから目を離さず、日々絶えず、十字架のもとに自分を置き、主の御心を知って祈り続け
ること、神に依り頼むことをしていきたいものである。
★新約聖書 ローマ人への手紙 8:18
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、
取るに足りないものと私は考えます。
★新約聖書 ピリピ人への手紙 1:29
あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦し
みをも賜わったのです。
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