めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年1月27日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<墓場に住んでいた悪霊につかれた男からの学びの中の一つ「願い」>



★旧約聖書 詩篇38:9
   主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。
 
★旧約聖書 詩篇 6:9
   主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。

 
マルコによる福音書5章、ルカ8章、マタイ8章に記されている悪霊につかれている男のいや
しと解放のところでも、いろいろ教えられることが多い。 最近も一つ教えられたことがある。 
この記事の内容はこうである。 イエスと弟子たちが、ガリラヤ湖の東側にあるガダラ地方(ゲ
ラサ地方)に着かれると、すぐに、悪霊につかれた男が墓場から出て来て、イエスを迎えた。 
マルコ5:6-8
に、「彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝した」のは、「イエ
スが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。」
と書かれている。 悪霊
はイエスが、すべての権威の上に立たれている神のひとり子であることを知っている。 悪霊
は、この神の権威に従わなければならないことも知っている。 
 
悪霊につかれた男は、長い間着物も着けず、家にも住まないで、墓場に住んでいた。汚れた
霊が何回となくこの人を捕えたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それで
もそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていた。 彼は、夜昼となく、墓場や山
で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。
 表面は粗暴な者に見えただろうが、彼の心
の奥には、相当深い苦しみがあったと思われる。 それこそ彼の心は、地獄の苦しみだったの
ではなかっただろうか。 ルカ8:29「汚れた霊が何回となくこの人を捕えた」「捕えた」は原
語では、「力をもって捕える、無理矢理つかまえる」ことの意味合いがあるという。 この人は、
好き好んで悪霊と手を結んだわけではないことが伺える。 むしろ悪霊がもたらしてきた圧迫
から、悪霊の攻撃から、すなわち悪霊から解放されたかったと思われる。 
 
彼の中に入っていたレギオンと名乗る悪霊どもは、この地から追い出さないよう、豚の中に入
らせてくれるようイエスに懇願した。 願いが許され、悪霊どもは豚の中に乗り移った。 すると
豚どもは、がけを駆け下って湖に入り、溺れ死んだ。 正気になった人は、お供をしたいとしき
りに願ったが、イエスは 「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、
話して聞かせなさい。」
と言って彼を帰された。 マルコ5:19には「あなたの家、あなたの家族
のところに帰り」
と書かれているが、この「あなたの家族」ということばは、原語では「あなたの
人々」
となっており、一般的にいう家族だけでなく、自分に属する人々、という意味があるらし
い。 だから彼はイエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で
言い広め始めた
、ということである。 

 福音書を見ると、イエスは、いやしをなさるとき、その人に「なおりたいのか」とか「何をしてほし
いのか」
などとその人の意志、願いを確認されている。 盲人には「何をしてほしいのか」と尋
ねられ、らい病人からは「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが。」という言葉
を聞かれた。 また、悪霊の追い出しに関しては、何度も何度も火の中や水の中に倒れる子ど
もは父親がイエスに求めた。 中風の僕はその主人がいやしを求め、床に寝かせたままの中
風の者は、周囲の人々が求めてきた。 このように、その人やその人に関係する周り人のイエ
スに対しての願い、求めがあるかどうかを確認されてから、いやしや解放(悪霊の追い出し)を
なさっておられる。 聖書では、悪霊につかれている人を精神を患っている人、生まれつき脳
に障害がある人などと区別をしていると思われるが、両者とも悪霊の影響を受けていることが
多い。(使徒26:25) また、悪霊の攻撃を受けた結果の状態であることもある。
 
 この墓場に住んでいた 悪霊につかれた男に関しては、彼自身は意思や感情、思考さえすべて
悪霊に支配されていたので、自らイエスにいやしと解放を求めることはできなかったし、周囲の
者が彼に代わって、イエスに求めたとも記されていない。 しかし、マルコ5章ルカ8章による
と、イエスの方から、その人に出会ったとき、汚れた霊に出て行くよう命じられた。 通常、人が
救われ、いやされ、解放されるのは、ただ一方的な神からの人に対する あわれみによるが、
人からの側では、ひと言でいうなら、「人が主イエス・キリストを信じた」という「信仰」があったと
言われる。 
 
しかし、この悪霊につかれた人の表面上は、イエスに対しての「信仰」や「願い」「求め」があっ
たとは思われない。 むしろ、悪霊を追い出してもらってから後に、「信仰」が戻ってきたか、与
えられたかはわからないが、「信仰」が働いている。 正気になって、この人が、まず発した言
葉は「(イエスの)お供をしたい。」だった。 正気になったから、まず家に帰りたい、家族に会い
たいと思うのが常であろうが、彼はまず、主に従うことを最優先した。 聖書には、「しきりに
願った
」と書かれている。 いわば彼のイエスへの「信仰」がここで表面にあられている。 主
は、我々の心の奥底まで見抜いておられる。 ご存知である。  
 
悪霊に意思や感情、思考も支配され、異常なほどの心の圧迫、孤独と苦しみで、自由な選択、
判断さえできなかったこのゲラサ人の心の奥底をイエスは見られたのでないだろうか。 圧迫
された心の奥底に、彼の本音、本心と思われる「解放されたい」「いやされたい」という「願い」
をイエスは見てくださったものと思われる。 そして、その「願い」は自分優先の「願い」ではなく、
「主に従っていくこと」を最優先するような質の「願い」だったことを主はご存知だったのではな
いだろうか。 また、イエスの方から「汚れた霊よ。この人から出て行け。」という悪霊への命じ
のことばは、この 悪霊につかれた男にとっては、「神のことば」にも等しいものであったと思わ
れる。 いや、「神のことば」であっただろう。 事実、その「ことば」通りになったからだ。 
 
このように、「主に従っていくこと」を最優先するような質の「願い」を持つことは重要である。 
悪霊にもつかれていない、精神にも支障をきたしていない、生まれつき、もしくは生後の脳障
害もないクリスチャンであっても、あまりにも強い悪霊からの攻撃、圧迫があって、そこからの
いやしと解放のための「信仰」を持つことができない、ということがある。 しかし、それは「不信
仰」という問題ではない。 事実、そういう人がいる。 ただ、その場合、その人には、主から「こ
とば」が与えられており、また、その「主のことば」が成就(完了)してほしいという「願い」、「主に
従っていくこと」を最優先するような質の「願い」が心の奥底にあることが必要である。 
 
いずれ主が定めておられる「主の時」が来る。 その時、主がその悪霊からの攻撃を終わらせて
くださり、いやしをあらわされた後に、それまですさまじい悪霊からの攻撃のため押さえつけられて
いた「信仰」が回復する。 また、それだけではなく、より強くなってあらわれてくる。 そして、主にへ
りくだりつつも悪霊に対しては、力強く、的確に対応することができるようになる。 聖霊に導か
れて、主に仕えることができるようになる。 こういうことがあり得る。 
 
いずれにしても、我々が心の奥底に持っている「願い」に、主が目を留めてくださるようにと願
う。 我々が浅いところでの「主に従っていく」という「思い」や「願い」ではなく、心の奥底から主
を最優先した「主に従っていく」という「願い」を持ちたいものである。 悪霊に支配され、苦しみ
もがいた「時間」は、このゲラサ人にとって決して無駄にはならなかった。 その苦しみもがいた
「時間」があったからこそ、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリス
の地方で言い広め始めた
彼のことばに聖霊が存分に働くことがおできになったと思われるから
だ。 我々も主を恐れ、主の御前にへりくだって、清められ、主を最優先するような質の「願い」
を持ちたいものである。
 
★旧約聖書 詩篇 6:9
   主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。
 




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