めんどり通信/2013年1月6日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <「断食」についての考察> |
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★旧約聖書 イザヤ書 58:5、6
わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂
れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜
ばれる日と呼ぶのか。 わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くび
きのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことで
はないか。
●旧約聖書を見ると、いろいろな人たちがそれぞれの理由で「断食」したことが記されている。
例えば、モーセは、シナイ山で神から律法を受け取るとき、四十日四十夜、パンも食べず、水
も飲まなかった。(出エジプト34:28) ダビデ王と家来たちは、サウロ王とヨナタンが殺された
ことを聞いた後、いたみ悲しんで泣き、夕方まで断食した。(Uサムエル1:12) また、ダビデ王
は、子どもが病気になったとき、神に嘆願し、断食した。(Uサムエル12:16) ヨシャパテ王は、
モアブ人とアモン人たちから戦いを挑まれるとき、ユダ全国に断食を布告した。(U歴代史20:
1-3) ニネベの人々は、ヨナの説教により断食して悔い改めた。(ヨナ書3:4-9)
このように人々は、大きな悲しみがあったとき、神に嘆願するとき、苦悩や困難な状況のとき、
悔い改めのとき、断食をした。 旧約聖書で、断食が命じられているのは、レビ記16:29-31で
あると言われている。 「以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。 第七の月の十日
には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在
留異国人も、どんな仕事もしてはならない。 なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるため
に、あなたがたの贖いがなされるからである。 あなたがたは、主の前でそのすべての罪から
きよめられるのである。 これがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒め
る。これは永遠のおきてである。」
上記の「身を戒める」とは、「断食をして」と解釈されてきたが、今もユダヤ人たちは、年一回、
「購いの日」を守り、断食しているという。 「身を戒める」は、新共同訳では「苦行する」と訳さ
れており、原語のヘブル語の直訳は「あなたのたましいをへりくだりさせる」という意味であると
いう。 確かに、たましいを研ぎ澄まし、神の御前にへりくだるために「断食」は勧められること
かもしれない。 ただ、「断食」は、強制されるものではない。 しかし、必要なときがあるとも思
われる。
新約聖書では、老女アンナは宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた、と
書かれている。(ルカ2:37) ヨハネの弟子たちもよく断食をしており、祈りもしていた。 主イ
エスは悪魔の試みを受ける前、四十日四十夜断食された。 アンテオケ教会は断食と祈りをし
て、バルナバとパウロを送り出した。(使徒13:2、3) 教会ごとに長老たちを選ぶために、断食
して祈った。(使徒14:23) このように「断食」には、「祈り」が伴っている。 「断食」と「祈り」が
切り離せない。 弟子たちが悪霊を追い出せなかった時、イエスは、「この種のものは、祈りと
断食によらなければ出て行きません。」と言われ、「断食」と「祈り」の両方の必要性を弟子たち
に教えられた。
「断食」をすることは、多くの宗教においても賛同されている。 崇高な行ないとも思われてい
る。 しかし、その「断食」を週に2回もしていたパリサイ人をイエスは、「偽善者たち」と呼んだ。
だから「断食」は、強制されず、積極的に「自発的」にすることを神は良しとされていても、その
「断食」に主の導き、示しがなければ、聖霊が働かれなければ、「かたち」「行ない」だけで終
わってしまう可能性がないとは言えない。 「自発的」が肉の熱心からのものになってしまう可
能性がある。 また、真の「祈り」が伴うことも重要であろう。 主からの示しを受け、聖霊に導
かれて「断食」をして、どのような結果が与えられ、どのように益になるのか、どのようなあらわ
れがあるのかが、わかる場合とわからない場合がある。 いずれにしても、主なる神が、その
人に対してのご計画の中で必要とされたのである。
著者は今までに3日間の断食を3回、行なった。 1回目は信仰に堅く立って間もない頃、朝、掃
除をしていたら、「断食しなさい」という(霊の)声が聞こえたように感じた。 空耳か自分の思い
込みかどうかわからず、すぐに教会へ行き、牧師に判断を仰いだ。 そのときイザヤ書のみこ
とばを教えてもらい、それからまるまる3日間、通常の生活をしながら、家族の者にもわからな
いようにしながら、祈りつつ何も食べず、水も飲まない断食をした。 結果、何が変わったか、
そのときには明確ではなかった。 2回目は、牧師に言われて行なった。 そのとき、初めて3日
間の断食でも少量の水を飲んでもいいことを知った。 3回目は、教会を出て、祈りに祈ってい
たとき、「断食」という示しを明確にわかったので実行した。
著者の場合、「断食」の2日目から必ず嘔吐が始まる。 胃液を吐くくらいで、3日目も続く。 3
回とも同様だった。 2回目の時、信仰が足りないからだと牧師から指摘されて、祈ったが嘔吐
は止まらなかった。 3回目の「断食」のとき、「悪しきもの、古きもの、出て行け」という思いで
嘔吐していたが、「やはり、信仰の問題だろうか」と心配になり、同じような体験をした人がいな
いかどうか、いろいろ調べた。 するとあるクリスチャン雑誌のクリスチャン記者が「断食」の取
材のため、自分も「断食」した体験が載せてあるのを読むと、その人も著者と同様であり、それ
は体質の問題だということがわかって、ホッとしたことを覚えている。 むしろ、そのような者に
も「断食」を導いてくださった主に感謝したものだ。 どのようなかたちにしろ、3回の「断食」は、
著者にとって、神がご計画されていたことであり、主の方が必要とされていたことだったと、そう
思う。 現在も、特殊体質は変わっていないが、そのことを主がよくご存知なので、主の示し、
導きがあれば「断食」して祈ることがあるかもしれないと考えている。
さて、実際の「断食」は、主の示し、聖霊の導きによって行なわれるべきことであるので、「断
食」へと導かれない人もいる可能性はある。 だから自分は、「断食」をしたことがない、と言っ
て悔やんだり落ち込むことはない。 肉の熱心で「断食」を始めようとしないでいい。 また、明
確な主の示しがなくても、自発的に「断食」を始めた者が、聖霊によって導かれるということは
大いにあり得る。 様々なケースが考えられるが、結局、重要なことは、「断食」を行なうときに
は、聖霊の導きに従うことである。
このように実際の「断食」は、行なう者、行なわない者がいてもいいが、ただ終末になると、明ら
かに主イエス・キリストを信じるすべての者が「断食」をした方がいいと思われることに関係した
ことが、ルカによる福音書5章33節〜35節、Uテサロニケ2章7節、黙示録3章20節などに記さ
れている。 花婿であるキリスト(イエスの御霊である聖霊)が取り去られる時が来る、そのとき
には「断食」せよ、と書かれているようだ。 「断食」をたとえとして受け取るならば、パンを食べ
ること、水を飲むことを絶つ、すなわち、「メッセージ」を食べない、「悪しき霊」を飲まない、とい
うことであろう。 聖霊が働かれないメッセージは、主が示される正しいまっすぐな道から逸らさ
せる危険性がある。 すばらしいメッセージでも、「聖霊」が働かれていないならば、それを「悪
しき霊」がそのままにしておくはずはない。 敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽
くすべきものを捜し求めながら、歩き回っているからだ。(Tペテロ5:8) 「聖霊」と見せかけ
て「悪しき霊」を注ごうと巧妙な働きが流布する。 事実、それはもう起こっている。
我々は、どんなことにおいても祈り、キリストによって「吟味」が必要である。 実際の「断食」を
するにおいても、自分の動機、思いを吟味し、主に導きを求めるために祈り、いろいろなメッセ
ージや教えを聞いても悪しき霊が少しでも関わっていないかを見抜いていくことが必要である。
そのために、たましいをへりくだりさせて、祈っていくこと、聖書を神のことばとして祈りつつ読
んでいくことが重要であろう。 今年も、ますます目を開いていただくためにも、たましいをへり
くだりさせて、絶えず祈り、主と共に歩み進んでいきたいものである。
★旧約聖書 ミカ書 6:8
主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられる
のか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと
ではないか。
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