めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年12月23日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<神の選びと救いの計画の中に入れられ、とどまる者は幸いである>



★新約聖書 マタイによる福音書 22:14
   招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:9
   父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどま
   りなさい。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:16
   あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたが
   を任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残る
   ためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があな
   たがたにお与えになるためです。
 
★新約聖書(口語訳) ガラテヤ人への手紙 1:15
   ・・・母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかた
 
●「神の選びと計画」には、神の愛とあわれみが凝縮されている。 イスラエル民族は、神が遣
わされたメシア(キリスト)を拒み、キリストによる救いの恵み(福音)を拒絶している。 しかし、
神は、このイスラエルの不信仰と背信を、異邦人にも「神の選びと救いの計画」を与えるという
大きな恵みに変えてくださった。 また、神はイスラエルの中に常にご自身の選びの民(真のイ
スラエル)を残しておられる。 すなわち神に召し出されたユダヤ人だけが、福音を信じるよう
にされている(ローマ9:6,7) 「肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子
孫とみなされるのです。(ローマ9:8)」と書かれている通りである。
 
さて、神は創造主であり、我々人は被造物である。 陶器師が、自分が作った陶器に対して自
由に扱う権利があるように、創造主が被造物を創造主の思うままに取り扱うのに、当然の権利
がある。 自分の罪のために滅んでも仕方がないはずの我々に対して、救い出すために、神
の方が一方的に我々をあわれんでくださり、ご自身のひとり子を十字架にかけることを良しとし
てくださった。 ヨハネは「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のた
めに、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Tヨハネ4:10)
と言っているが、本当にその通りだと、つくづく思う。
 
「救い」ということが、我々の熱心や努力、知恵や行ないによるものではなく、ただ神のあわれ
みに基づく選びによるもの、すなわち、一方的な神の恵みであることを悟るなら、そこから主イ
エス・キリストに対して心からの感謝が生まれ、「主のために生きたい」という願いが生まれてく
ると思われる。
 
本来、我々の中には、神に選ばれる理由は何もない。 しかし、あえて、「なぜ、選ばれるのか」
ということを考えるなら、その答えはやはり聖書に書かれている。 第一コリント1章27節、28節
に書かれている。 「神は、・・この世の愚かな者を選び、・・この世の弱い者を選ばれたのです。 
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るも
のをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」  また、選民イスラエルは
「すべての国々の民のうちで最も数が少なかった」から神に選ばれたと書かれている(申命記
7:7) この数が少ないという単語は、もっともつまらないもの、という意味合いもある。 キリスト
を信じているという者は、このことを深く認めてへりくだるべきであろう。
 
また、いつ選ばれたか、というときパウロは「母の胎内にある時から」選んでくださっていたと言
っている。(ガラテヤ1:15) このパウロは、よみがえりのイエス・キリストに出会って回心するま
で、むしろクリスチャンを迫害していた者だった。 それでも「母の胎内にある時から」選ばれて
いたと言い切れるのは、回心して後、自分の人生を振り返ったとき、明らかに主の御手があっ
たことを確信したからだと思われる。 主と主のことばの実際を知れば知るほど、彼は自分に
関わってくださった主の御前にへりくだり、キリストのための苦しみを通ることから逃げなかった。 
パウロの信仰生活を見れば明らかである。 主は訓練のために 困難、苦難を通すことはある
が、全く打ち伏せられることのないようにしてくださる方、守ってくださる方であることをパウロは
よく知っていた。(詩篇 37:23、24) 
 
「守られた」というとき著者の場合、こんな体験をした。 今までの人生の中で3度、主に命を助
け救われた。 著者が生まれる少し前、母親が畑で麦踏をしていて、しりもちをついたという。 
そのときに胎の中でくるりと回った。 陣痛が起きて、自宅で産婆さんが取り上げるとき、お尻
から出てこようとした。 しかしお尻から出てきても、頭がついてこないと赤ちゃんが危なくなる
ので、産婆さんが、赤ちゃんの著者を胎の中に戻して、胎の中で回して頭から出てくるようにし
たという。 上手いベテランの産婆さんだったから助かったものの、へその緒が首に巻き付い
て窒息して、死んでもおかしくなかったと聞かされた。 また、幼稚園に入る前の幼いとき、近
所の電器店のお兄さんが、いつも配達の時、軽トラックに著者を乗せて行ってくれた。 ある日、
どういうわけか、その日に限って著者は、そのお兄さんの軽トラックに乗らなかった。 すると、
そのお兄さんの乗った車が踏み切り事故を起こし、残念ながら、そのお兄さんは亡くなった。 
もし、いつも通り、著者が一緒に乗っていたら著者も間違いなく死んでいただろう。 
 
3度目、小学の低学年のとき、著者は交通事故に遭った。 母親と一緒に銭湯に行こうと家を
出た途端、気を失った。 傘がバイクの荷台にひっかかったという。 バイクの運転手は、雨で
前がよく見えなかったらしいが、早く帰ろうと飛ばしていたという。 通常なら、飛ばされるのだ
から傘がひっかかった時点で、傘が手から離れる。 しかし、どうも著者は、気を失ったまま傘
を堅く握っていたという。 運転手が気付くまで、ひっかかったまま引きづられた。 バイクが気
付いて止まったところがちょうどタクシー会社の前だった。  著者が目を覚ましたのは、病院へ
急ぐタクシーの中だった。 ほんのかすり傷ですんだ。 もし、傘を離していたら、後続車にはね
られていただろうということであった。 他にも多々あるが、特に以上の3度のことは、主に命を
助けていただいたと本当に思う。 著者がクリスチャンになって、主イエス・キリストのことを知れ
ば知るほどに、主に心から感謝が溢れてくると同時に、「主のために生きたい。主に喜ばれる
者になりたい。」という願いを真に持つようになった。
 
このようにしてみると、主イエス・キリストを信じて「神の選びと計画」の中に入れられていること
を知り、感謝できることは、とても幸いなことであると思う。 ただ、最後まで主が喜ばれる歩み
をして「義の栄冠が私のために用意されているだけです。」とパウロのように言えるようになる
ことが大切であろう。(Uテモテ4:8) 著者は、確かに今までも、今も「神の選びと計画」の中に
入れられていることを感謝している。 しかし、今日、そうだからと言って、今までがそうだから
と言って安堵はしない。 まだまだ、自分の内には、主に嫌われる肉があると思われるからだ。 
完全ではないからだ。 あのパウロが、晩年になって「私は、すでに得たのでもなく、すでに完
全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。(ピリピ3:12)」
言っている。 ならば、著者などはまだまだと、本当にそう思う。 だから油断をせず、自分自
身をためし、また吟味、人の心と思いとを調べられる主に絶えず祈っていきたいと思う。(U
コリント13:5、詩篇7:9) 
 
主と主のことば」を知れば知るほど、ますます神の愛と守りを感じる。 感じるだけでなく実際
となってくる。 この地上での様々な苦労、困難、苦難、試練は、しばらくのことであり、主はそ
のような苦労をむだにされず、大いに益にしてくださる方である。 今の神の愛も守りも深いし
重い。 まして、将来の永遠の栄光はもっと深いし重いものである。 将来の永遠の栄光があ
まりにも凄く、測り知れないものであることをパウロは知ったが、著者には、まだまだ知る余地
がある。 また知るべきだと思っている。 いよいよ、主に求めていきたいものである。 そして、
「私は、神の選びと救いの計画の中に入れられていた」と主に感謝しつつ、ゴールで「義の冠」
を受けたいものである。 
 
★旧約聖書 箴言 2:7-2:9
   彼は正しい者のために、すぐれた知性をたくわえ、正しく歩む者の盾となり、公義の小道
   を保ち、その聖徒たちの道を守る。そのとき、あなたは正義と公義と公正と、すべての良  
    い道筋を悟る。
 



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