めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年12月16日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<復活のイエスを見て、御父と御子イエス・キリストとの交わりをする



★旧約聖書 詩篇 119:18
   私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるよ
   うにしてください。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書  20:29
   イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は
   幸いです。」
    
●復活されたイエスの顕現については四福音書がそれぞれ主張すべきことの違いからか、必
ずしもみな一致した記録ではない。 ただ、最初に空の墓を発見して、そのことを弟子たちに
伝えたのは複数の女性たちだったと考えられる。 その中でもヨハネによる福音書では、最初
の顕現をマグダラのマリヤに絞っている。 マグダラのマリヤはイエスに七つの悪霊を追い出
してもらい、その後、12弟子たちと共にずっとイエスに付き従っていた。 十字架に掛けられた
イエスを遠くから見守り、墓と、イエスのからだの納められる様子を見届けた。 
 
このマグダラのマリヤが、イエスが十字架で死なれ、墓に葬られて3日が経った週の初めの日
の早朝、墓に来た。 墓から石が取りのけてあるのを見ると、だれかがイエスのからだを取っ
て行ってしまったと思い、走って、ペテロとヨハネのところに行き、そのことを言った。 ペテロと
ヨハネは墓に走って行き、墓が空であることを確認したが、彼らは、イエスが死人の中からよ
みがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったので、弟子たちはまた自分
のところに帰って行った。 ところが、マグダラのマリヤは、外で墓のところにたたずんで泣いて
いた。(ヨハネ福20章) 
 
すると、白い衣をまとってすわっているふたりの御使いが、見えた。 マリヤは、その光景に驚く
こともなく、むしろイエスの遺骸がないことの悲しみに暮れていた。 イエスに対して深い愛を抱
いていたのである。 そのようなマリヤだったが、「なぜ泣いているのですか。」ということばを復
活されたイエスにかけられても、彼女は園の管理人だと思い、イエスであることがわからなかっ
た。 しかし、イエスに「マリヤ。」と名前を呼ばれて初めてイエスだと気づいた。 イエスの羊で
あるマリヤだから、羊飼いであるイエスの声を聞き分けることができたのだ。 羊飼いイエスは、
ご自身の羊をその名で呼び、羊はその声を聞き分けるからである。(ヨハネ福10:3)  
 
イエスであるとわかった途端、マリヤは「ラボニ(先生)。」と言ってすがりついたか、もしくはすが
りつこうとした。 それをイエスは「わたしにすがりついていてはいけません。(ヨハネ福20:17)」
たしなめられた。 マリヤは必死で取り戻そう、もう離すまいとしていたからである。 マリヤは
今、目の前に見えるイエスを十字架にかけられる前のイエスと同様に考えていたのかもしれな
い。 十字架にかかられる前のイエスと復活後のイエスは、同じであって同じではない、違うの
である。 父のみもとに上られていないイエスは、そのときはまだ栄光を受けておられなかった
が、イエスが復活されたのは、十字架の贖いを全うされるためである。 父のもとに上られ、父
なる神の御座の右に着座され、聖霊を主に従う者たちに遣わすためである。 
 
イエスはマリヤに「わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあな
たがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。(ヨハネ福20:17)
と言われた。 それは、それまで、父とひとり子イエスという永遠のゆるぎない関係だけであった
が、イエスが父のみもとに上られ、聖霊を注いでくださった者たちを「わたしの兄弟」と呼んでく
ださり、ご自身の父というだけでなく、「あなたがたの父」と言われ、ご自身の神というだけでなく
「あなたがたの神」と言ってくださる。 すなわち、聖霊を注いでくださった者たちを養子縁組して、
御父と御子の交わり中に入れてくださるということである。 「御父および御子イエス・キリスト
との交わり」に入れられることは、聖霊によって御父と御子イエスが我々のところに来て、我々
と共に住むということであり、そのことの実際を我々が体験し続けることができるということであ
る。(ヨハネ福14:23) 
 
イエスに付き従っていたマグダラのマリヤは、イエスが十字架にかかられる前までは、いつで
もイエスを肉眼で見ていた。 すぐそばで見ていた。 主のことばを、主の声を耳で聞き、主の
顔を目で見て、主がなさる奇蹟を目の当たりに見ていた。 だが、主がひとりで祈られるために
山に登られたりなど離れていたときは、主を見ることができなかった。 しかし、聖霊が注がれ
御父と御子イエス・キリストとの交わり、すなわち新たな関係、かかわりに入るならば、いつで
も、どこででも、主イエスが共におられるので親しい交わりをすることができるのである。 霊に
よって主を見ることができるのである。 イエスはマリヤに、真に主イエス・キリストを求める者
だれにでも、聖霊が注がれ、その者と主イエスが共におられ、親しく、かかわってくださる方で
あることを伝えることを告げる者にしてくださった。 
 
神を信じ、神をあがめる。 このことは重要なことである。 しかし、神を信じ神をあがめてきた
はずの多くのユダヤ人、群衆は、道を間違えた。 広い道を狭い道、正しい道と見誤った。 い
やし、悪霊の追い出し、多くの奇蹟を見て神をあがめることは大切なこと。 しかし、多くの奇蹟
を見た、体験した群衆、多くのユダヤ人たちは、イエスを悪霊どものかしらベルゼブルと見誤っ
 評判の囚人バラバより悪い者、十字架で磔に処せられなければならない者と見誤った。
(マタイ12:24、27:26)  神を信じている、イエス・キリストを信じていると言っても、よみがえら
れて今も生きておられるキリストを見ていないなら道を間違える可能性はある。 人が生きる
指針、焦点をよみがえられたキリストに合わし、キリストを霊の目で見ていくなら道を見誤ること
も間違えることもない。
 
主が我々に望まれていること、それは「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども
愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ち
た喜びにおどっています。」という実際ではないだろうか。(Tペテロ1:8) モーセも「信仰によっ
て、彼は、王の怒りを恐れないで、・・・目に見えない方を見るようにして、忍び通した」と書かれ
ている。(ヘブル11:27) よみがえられて父の右に着座しておられる主イエス・キリストを見てい
くなら、進むべき正しい道を見誤ることはない。 命にいたる門は狭く、その道は細いが、その
道を見出すことができるであろう。(マタイ7:14) 
 
肉眼では見みえなくても、復活のイエス、よみがえられたイエス・キリストが生きておられること
は事実である。 実際である。 また、神の方が、我々を常に、御父および御子イエス・キリスト
との交わりの中に入れて下さろうとしている。そのことを信じて、信仰の創始者であり、完成者
であるイエスから目を離さないで、進んでいきたいものである。 よみがえりの主を見ることを
妨げる肉が切り取られ、自我が砕かれることも重要であろう。 そのために、へりくだって、そ
のことにも真剣に取り組みたいものである。 そのような者は、復活のイエス・キリストに出会う
ことができ、絶えず交わりができるようにしていただけるだろう。 それは主イエス・キリストの
方から語りかけてくださって初めて、我々は目が啓かれ、耳が開かれて、キリストを知ることが
できる、主の御臨在を実感することができるからだ。 
 
日々の生活の中で、主の主権を認め、主の前に自分の弱さ、むなしさを徹底的に知り、心の
奥底まで主に清めていただきたいものである。 主の御前にへりくだることを徹底していき、絶
えず、御父と御子イエス・キリストとの交わりをしながら、主が定めておられる細い道を進んで
いきたいものである。
 
★新約聖書 ヨハネの手紙 第一 1:3
    私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交
   わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストと
   の交わりです。




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