めんどり通信/2012年12月9日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <「まずすわって」「計算し」「考えて」キリストの弟子になる> |
|
★新約聖書 ルカによる福音書 14:26、27、33
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも
憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子
になることはできません。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお
受けになるのです。
●主イエス・キリストの弟子になる条件を主がいろいろ語られたが、その中でも最も基本であ
り、重要と思われることがルカによる福音書14章に書かれている。 冒頭のみことばである。
自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、自分のいのちを憎むこと。 自分の十字架を負うこと。
自分の財産全部を捨てることである。 それらができなければ、主は、「わたしの弟子になるこ
とはできません。」と言われる。
通常、日本語では「憎む」というとき、言葉通りに受け取るなら、家族を嫌だと思い、不快に思う
ことである。 しかし、ここの「憎む」は、ヘブル語では、敵意をもって憎む、嫌だ、憎たらしいと
いう感情をあらわすのではないという。 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。(マラキ書
1:2、3)」などと反対の意味を持つ用語や語句と合わせて使われる場合、優先順位的な意味
合いになるという。 神は、エサウをヤコブのようには愛さなかった、ヤコブよりもエサウの方が
愛され方が少なかったということであるという。 すなわち、どちらが優先かということである。
弟子の条件である「自分の父、母、妻、子・・を憎む」ということも、主と弟子の関係を第一に優
先し「父、母、妻、子・・」は、その次の順位として見るべきだということである。 主なる神は、夫
婦関係、親子関係を重視されておられる。 しかし、それ以上に重要なのは、人が主のもとに
来て、弟子となり、「主と弟子」の関係である。 それを、最優先せよ、ということを主イエスは
我々に語っておられる。 「自分の十字架を負うこと」、「自分の財産全部を捨てること」も、「主
と弟子」の関係を最優先せよということを強調していると思われる。 ある意味、主の元にいる
から、自分の十字架を負うことができ、自分の財産を捨てることができると言えよう。 いずれ
にしても、まずは「主と弟子」の関係を最優先し、そして、「自分」、「我」の主導権は、主イエス・
キリストに明け渡していくべきである。 それは操り人形になるというのではなく、主のもとで、
キリストにあって自分が判断し、決断することである。 ローマ人への手紙3:22に「イエス・キリ
ストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ」る、と書かれて
いる。 「義」とは、神と人との正しい関係であり、すなわち、神によって与えられる罪の赦し(イ
エス・キリストの十字架)、救い、正しさ、神が良しとされることである。 この「義」という漢字は、
「我」の上に「羊」(神の小羊イエス)がある。 我々は何事においても絶えず、「主イエス・キリ
スト」を自分の頭の上に置く、すなわち主を優先すべきである。
さて、「憎む決断、十字架を負う決断をする」において我々がしなければならないことを主はたと
えで語られている。 「塔を築こうとするとき」のたとえ話と「王が戦いを交えようとするとき」のた
とえ話である。 塔を築こうとするとき、未完成になって笑い者にならないために完成できる費
用を計算する。 王が戦いを交える前に、勝ち目のある戦いかどうか考える、ということである。
「まずすわって」「計算し」「考えて」決断するということである。(ルカ14:28-32)
「まずすわって」ということばの「まず」は、何よりも優先してという意味合いを持つ。 原語で聖
書を読める方によると、「すわる」は、ギリシャ語では言葉通りであるが、ヘブル語では単に「す
わる」というだけでなく、「住む」、「とどまる」ことを意味するという。 最優先で、まず主の中にと
どまること。 すなわち、「まず、主との関係、かかわりを築くこと」を最優先するということである。
次に、ここの「計算する」ということばは、ヘブル語では「計算する、思いめぐらす、顧みる」とい
う意味で使われるという。 すなわち、静かに思いをめぐらせることをするということである。 こ
この「考える」ということばは、ギリシャ語では「自ら考え、熟考して結論を出す」ことを意味する
という。 ヘブル語においても、最終的には自分で結論を出すというニュアンスになるらしい。
結局、「主と弟子」の関係は、何よりも最優先されるべき関係であるから、じっくり考えて決断す
ることを語っておられる。 「主と弟子」の関係になることに何ら強制的なものはない。 むしろ、
その人の自由意志であり、自発的な決断による。
こうして見ると、「キリストの弟子になることは、結構、大変なことだ、私は群衆でいい。」と言う
人も多いことと思われる。 しかし、福音書を見ると群衆は、「主よ。主よ。」と言っていても、自
分の都合、自分の基準で物事を考えるので、誘惑に弱く、誘導されると、すぐに主を裏切って
いる。 弟子には、御国の奥義を知ることが許されているが、群衆には許されていない。(ルカ
8:10) 神の奥義を知ることが許されていないなら、成人のクリスチャンとして立つことができな
い。 信仰を堅くすることができない。 主なる神、イエス・キリストの栄光を知ることができない。
だから、主が与えようとしておられる神の恵み、神の祝福を受け取ることができない。 もちろん、
主イエス・キリストを信じた者が神の恵みや祝福をいただいた体験は多々あるだろう。 しかし、
神の恵みや祝福は本当に深いもの、深さがある。 そのような霊の深みからの神の方から与
えようとしておられる恵みや祝福を受け取ることができないのだ。
また、群衆は主のみこころを行なうことができない。 主の御名によって悪霊を追い出し、預言
をし、多くの奇蹟をした弟子と思われる者たちに「天におられる父のみこころを行なう者が天の
御国にはいる。」と主イエスは言われた。 一旦、主の弟子と呼ばれた者でも、最後まで主イエ
ス・キリストに付き従って行かなければ、天の御国に入れないということになる。 彼らは、人か
ら「キリストの弟子」と呼ばれたとしても、主イエス・キリストとの親しいかかわりを築いていなか
った、すなわち、主のもとにとどまっていなかったと思われる。(ヨハネ福6:66) 「いのちに至る
門は小さく、その道は狭」い。 主のもとにとどまり続ける者だけが、狭い道を最後まで歩み続
けることができる。 その道の行き先は天の御国である。 その道を群衆は決して歩むことが
できない。 聖書を見るなら、主なる神は、犠牲や代価を払ってでも、真に神の御前に求める
人に、永遠の命を与えてくださる。 それは弟子の姿である。
神の方が、我々人が塩けを失わず、つまり何の役にも立たない者にならないことを願っておら
れる。 しかし、「主と弟子」の関係は、人がじっくり考えて、人の方が、「主に従い続ける」、そ
のために「十字架を負い、一切を捨てる」という覚悟、決心、決断があって成立するものであ
る。 正しい「主と弟子」の関係こそが塩が塩けを保つ秘訣である。 「土地にも肥やしにも役
立たず、外に投げ捨てられてしま」わないためには、やはり群衆ではなく、弟子でなければな
らないようだ。 それはイエスの方が我々に望んでおられることである。 意味のある人生を
生きるために、キリストを信じ、正しい「主と弟子」のかかわりを持っていきたいものである。
★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:4-6
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木につ
いていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしに
とどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 わたしはぶどうの木で、あなたがた
は枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人
は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからで
す。 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れま
す。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます
|
|