めんどり通信/2012年12月2日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <ダビデとサウルの悔い改めの違い> |
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★旧約聖書(口語訳) 詩篇 51:10
神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
★旧約聖書 詩篇 51:17
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさ
げすまれません。
★旧約聖書 箴言 3:11
わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。
★新約聖書 ルカによる福音書 9:23
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨
て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
●キリスト教で「罪を悔い改める」という言葉をよく使う。 クリスチャンなら通常、当たり前の言
葉ではあるが、この「悔い改める」ということは、案外、軽く使われている場合も多いかもしれな
い。 聖書でいう「罪」とは、新約聖書の原語ギリシャ語では、「ハマルティヤ」で、的外れという
意味である。 人が神である的を外して生きる生き方、神の計画から離れた生き方を指すと言
えよう。 また、「悔い改める」とは、国語辞書には「過去のあやまちを反省して、心を入れかえ
る。」と書かれているが、ギリシア語では「メタノイオー」で、「方向を転換する」という意味だとい
う。 だから、本当に「悔い改めた」ならば、その後の目的、進むべき道などの方向が変わって
くる。 言動が変わってくる。
また、真の悔い改めは、聖霊によって導かれるものである。 罪、肉の思い(生まれながらの
神に従うことができない性質、すなわち自己中心的な性質)などは聖霊によって示されて、罪を
本当に罪と知り、自己の罪深さを知ることができるものである。 聖霊に導かれて悔い改めを
した者は、聖霊に触れられたと言えよう。 聖書の登場人物の中にも、悔い改めた後、その言
動が見事に変わった者が多々いる。 ヨブ、ヨナ、ペテロ、パウロ・・・。
さて、ダビデの場合。 30歳でイスラエルの王となり、40年間、偉大な王であり神に愛された王
だった。 サウル王から命を狙われていたとき、サウルを打つ機会が与えられても、一旦、神
が立てられた権威を尊重し、手出ししなかったくらい、神のことばに忠実だった。 しかし、その
ようなダビデが罪を犯した。 姦淫と殺人である。 イスラエルの敵であるアンモンと呼ばれる
人々との戦いに、始めは戦いで陣頭指揮を取っていたダビデだが、年が改まると、軍隊を戦
場に送り、自分はエルサレムに残った。 夕暮れに床から起き上がるという安穏とした生活の
中で、ウリヤの妻で、バテ・シェバという美しい女性が水浴びをしている姿を見かけた。 すぐ
に宮殿に召し入れて、姦淫の罪を犯した。 その上、バテ・シェバの夫ウリヤを家来に殺させる
という殺人を犯した。
神は預言者ナタンをダビデのところに遣わされ、罪を指摘された。 そのとき、ダビデは、「私
の罪は、いつも私の目の前にあります。(詩篇51:3)」と自分の罪と向き合うことから逃げなか
った。 罪に背を向けるのではなく、自分の罪と向き合い、神によって示された罪の姿を認め
た。 そのときは、胸をかきむしられるような辛さがある。 しかし、それこそが真の「悔い改め」、
すなわち方向転換するときの姿でもある。 ダビデの心からの深い深い悔い改めと赦しを求め
る祈りが詩篇51編に書かれている。 その後のダビデの信仰は更に大きな飛躍を遂げた。
それまでも神に出会っていたダビデだが、そのことを通して、更に深く神に出会った。 旧約で
は姦淫に対する罰則は死であったが、悔い改めを通して、自分を愛し、赦してくださる神に出
会い、神を深く知り、ダビデは死から命へと方向転換をした。 ダビデが自分で方向転換をした
というより、させていただいた。 ダビデの神に対する素直で真実な心を見て、神があわれんで
くださったのである。
次にイスラエルの初代王サウルの場合。 最初は主のみこころ通りに歩んでいたが、預言者
サムエルにギルガルで7日間待つように言われていたにも関わらず、待たないで与えられてい
ない認職、祭司の務めを行なってしまった。(Tサムエル10:8、13:9) また、アマレクとの戦い
で、聖絶せよと命じられていたのに、値打ちのないものだけを聖絶し、良い家畜を生かしておく
という罪を犯した。 預言者サムエルを通して、罪を指摘されても、言葉では「私は罪を犯しま
した。」と言ったが、サウルは方向転換をしなかった。 罪に背を向け、自分の罪と向き合おう
としなかった。 言い訳けと弁明を繰り返した。 すなわち、本当の「悔い改め」をしなかった。
そして、神に捨てられ、最期は悲惨な死を遂げた。(Tサムエル記31章、T歴代誌10章)
「:悔い改め」の一部の「言葉」だけを見たらダビデもサウルも同じようである。 ダビデ、「私は
主に対して罪を犯した。(Uサムエル記12:13)」。 サウル、「私は罪を犯しました。私は主の
命令と、あなたのことばにそむいたからです。(Tサムエル記15:24)」である。 しかし、詩篇か
らわかるように、ダビデは「罪」に対して、苦しみ、「罪」を犯してしまう「自分の肉(生まれながら
の性質)」に苦しんで格闘している。 サウルは、「罪」や「自分の肉」から出て来る「思い」を、
なだめて自分の心が傷つかないように守っている。 「罪」は神が忌み嫌われるということより、
自分の思い、プライド、願いを優先し、押し通している。 自己中心的な思い、考え、願いを握
って離さないところに聖霊は働くことができない。
主なる神は、ご自身の子であるなら必ず、「懲らしめ」を与える。 それは「死」から「命」へと方
向転換をさせるためである。 神ご自身をもっと深く知らせるためである。 「わたしたちの内の
古き人はキリストと共に十字架につけられた(ローマ6:6)」というみことばがあるが、このみこと
ばは真実であるが、多くの場合、その「みことば」が本当にその人にとっての実際、事実となっ
ているかどうかは、主を信じた後、神からの懲らしめ(訓練)、試練を通して鍛えられた後に見
えてくるものであろう。 結局、「罪」、「肉(生まれながらの神に従うことができない性質、すなわ
ち自己中心的な性質)」と向き合うことが重要である。 聖霊に働いていただくために、素直に
なることが必要である。
パウロは「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それ
は、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。あなたがたはまだ、罪と
戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。(ヘブル12:3、4)」と言っているが、我々が格
闘すべき相手は、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊
だけでなく、自分の罪であり、自分の肉、すなわち「自分自身」であろう。 これがなかなか厄介
である。 しかし、神の方が、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、
ながく忍耐しておられるのだから、我々は、あきらめずにしっかりと、自分の内の「罪」や「肉」に
向かい合って、主が示してくださることを素直に認め、受け入れて「古い人を脱ぎ捨て」ていき、
主なる神との出会いをますます深くしていきたいものである。 そして、主のみこころを知って、
主イエス・キリストから離れないようにしたいものである。 日々、絶えず、主イエス・キリストか
ら目を離さず、十字架のもとに自分を置き、主の御前にへりくだってキリストの真実に預かれる
よう、また主に依り頼むことをしていきたいものである。
★旧約聖書 詩篇 15:1-15:3
主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むので
しょうか。正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。その人は、舌をもってそしら
ず、友人に悪を行なわず、隣人への非難を口にしない。
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