めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年11月18日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<じっと主が語られたことばが成就する「時」を待つ!>



★新約聖書 テサロニケ人への手紙 第二 3:5
   どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいます
   ように。

★新約聖書 マタイによる福音書 16:24
   それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自
   分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 
●主イエス・キリストが我々の罪のために十字架で死なれ、3日目によみがえられて、40日の
間、弟子たちに現れ、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きている
ことを使徒たちに示された。(使徒1:3) そして、「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくだ
さったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都
にとどまっていなさい。(ルカ24:49)」と言われ、天に上って行かれ、雲に包まれて見えなくなら
れた。 すなわち、昇天された。 エルサレムにとどまりなさい。」という主の命令を受けるまで、
主に従ってきた弟子たちは、主がなさるいろいろな病のいやしや奇跡、悪霊の追い出しなど
スラエルでいまだかつて見たことがないことを間近で見たり、体験したりしてきた。 
 
しかし、主が語られた「たとえ」や「主のことば」を悟れなかったことも多々である。 主が語られ
たことばの中で、主がこの地上に来られた目的とも言える重要なこと、「ご自分がエルサレムに
行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみが
えらなければならないこと」を弟子たちに話されたとき、弟子たちにとって、とても理解できるも
のではなかった。 ペテロは「そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」と思わず言っ
て、主に「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」としかられた。 ペテロは、
主イエスが神のひとり子であり、主イエスの国はこの世のものではなく永遠に続く神の国であり、
主イエスが神の国をご支配されるお方であると理解していたと思われる。 それなのに、殺され
ると言われることが理解できなかったようだ。 他の弟子たちも、主イエスがイスラエルをローマ
から解放してくださるお方と考えていた。 
 
だから弟子たちは、主イエスが言われた「主イエスが苦しみ、殺され、3日目によみがえる」とい
このみことばが理解できなかった また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを
恐れた(ルカ9:45) このところから推測するに、彼らの頭では理解できなくても、主と共に過
ごした中で、語られた多くの「主のことば」や様々な体験による「主の教え」が、彼らの霊に刻み
込まれていたから、「主イエスが苦しみ、殺され、3日目によみがえる」というこのみことばが、
彼らにとっては、とてつもなく重要で深いことであると感じたから恐れたのではないだろうか。
 
弟子たちには、まだ聖霊が下っていなかったので、すべてを悟ることはできなかったが、主は
彼らが理解する前に彼らの心、霊に一つ一つ、悟りや理解を先に刻み込んでくださったものと
考えられる。 しかし、イスカリオテのユダの心、霊には、主は刻み込むことができなかったの
ではないだろうか。 ユダとペテロをはじめ主に最後まで付き従っていった弟子たちとの違い
の中の一つは、彼らの心の奥底に秘めていた「思い」「考え」「願い」が主に反抗していたかど
うかではないだろうか。 
 
主イエスと、共に過ごした3年半、彼らは、いやしを含む奇跡や悪霊の追い出しを数え切れな
いほど目の当たりに見てきた。 ある時には、主に遣わされて伝道に出かけ、そこで主に言わ
れたとおり、主の御名によって悪霊を追い出したり、いやしをしたり・・・と主がなさっていた業を
弟子たち自身も行ない体験した。 弟子たちにとっては、実際、体験するものの、それでも真理
がわからないこと理解できないことが多々あったと思われる。 わからない、理解できないとい
うことで出て来る疑問があり、解放や救いなど他いろいろな願いもあったと思われる。 
 
自分なりに(肉で)主のことばを解釈すれば、主にしかられ、また、わからなくなったり、理解で
きなかったり、そしてまた主に尋ねたり、主のことばを解釈したりとそういうことを繰り返しなが
ら主によって様々な体験から教えられたことが刻み込まれていったと思われる。 イスカリオテ
のユダや主から離れていった弟子たちは、自分の「願い」は、執着して離さず、主のことばより
も自分の「思い」「考え」「願い」を優先したようである。 結果、主から離れ去って行き、主を裏
切った。 主は、一人一人の心の思い、考え、底の底にある思いまで、よくご存知だ。
 
主イエスが昇天された後、弟子たちはエルサレムに帰った。 主が弟子たちにエルサレムを
離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」と言われたからである。 いつ、どの
ような形で、そのことが成就するのか詳しいことは知らされていない。 それまで何をするのか
の命令はない。 ただ、それまで「エルサレムで待て。」だけであった。 家々で祈り、一所に集
まって祈り、祈り祈りでじっと待った。 
 
主が語られた「主のことば」は、何一つ地に落ちることはない。 すべて主が成就される! 完
了される! じっと待っていた弟子たちにも、「主の時」が来たとき、「突然、天から、激しい風が
吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。 また、炎のような分かれた
舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話さ
せてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。(使徒行伝2:2-4)」 このようなかたちにな
るとは弟子たちは、想像もできなかったことだろう。
 
主が成就されるその時まで、じっと祈りつつ待つことは、相当な忍耐がいる。  忍耐力が養わ
れる。 それと同時に「 主と主のことば」に信頼することを試される時でもある。  また、悪しき
霊どもも静かにしてはいない。 攻撃してきたり、誘惑してきたり・・・などと、「待つ」ことを妨げ
るように働いてくることも多い。 しかし、「主のことば」を与えられたなら、じっと待つことは重要
なことなのである。
 
今日、我々には基本的に「聖書」を通して、主のことば」が与えられる。 もちろん、人を通して
、環境、出来事を通して、直接に「主のことば」を与えられる者もいる。 どのような方法にしろ、
「主が語られたことば」であるなら、成就される、完了される「時」は、必ず来る! それまで、わ
かるわからないに関わらず、聖霊の流れに乗って、導かれるまま歩むことである。 主からの
訓練試練があるときには、必死で主によりすがればいい。 そうすれば、主は鍛えてくださる。 
訓練試練となる出来事などは益になる。(ヘブル12:11、ローマ5:3-5:5、) 
 
聖書を読んでいてわからなかったり、理解できないことは主に祈り尋ねていくとよい。 「時」が
来たら、主がわからせてくださる。 牧会者や人を通して、出来事を通して、直接、・・・・聖霊が
わからせてくださる。 わからなかったらわからなくてよい。 「時」が来たら、主がわからせてく
ださる。 自分勝手に、無意識にしろ自分の都合のいいように解釈するほうが問題である。 
主は、真理を頭で理解するだけでなく、求める者にとっての実際となるようにわからせてくださ
る。 知らせてくださる。 主に尋ね求める者には、必ず、答えてくださる。
 
いずれにしても、自分の内に起こって来るいろいろな「思い」「考え」「願い」が、主に反抗的に
ならないように気をつけたいものである。 また、自分の「思い」「考え」「願い」に執着しすぎるこ
とがないようにしたいものである。 ただ、自分で気をつけても直るものではないから、清められ
るよう真剣に祈り求めていきたいものである。 イスカリオテのユダのように土壇場で主を裏切
ったり、寝返ったりすることがないことを願う。 清められる段階で、主から直接、もしくは牧会者
や人を通してなど、指摘されたときには、素直になって、その通りに行ない、主に従っていきた
いものである。 日々、へりくだって絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、聖書
を読み、聖霊の流れに乗っていきたいものである。(ローマ12:2、エペソ6:18)
 
★旧約聖書 詩篇 33:4
   まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。



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