めんどり通信/2012年11月11日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <深く主を知るために、,深く深く土地を耕せ!> |
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★旧約聖書 イザヤ書 30:24
畑を耕す牛やろばは、シャベルや熊手でふるい分けられた味の良いまぐさを食べる。
★新約聖書 マタイによる福音書 13:23
良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実
を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。
★新約聖書 マルコによる福音書 7:14
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟り
なさい。
●旧約聖書のエゼキエル書を読むと「わたしが主であることを知る」ということばが多く書かれ
ている。 25章には、ユダの周辺の国々のアモン、モアブ、エドム、ペリシテに対する裁きが記
されているが、そこにもこのことばが書かれている。 それらの国々に共通することは、「わた
し(主なる神)が主であることを知った」ときに、神の裁きにあったということである。 それらの
国々は、イスラエルの民が、主なる神に不信に不信を重ねた結果ではあったが、エルサレム
が倒れ、イスラエルの地が荒れ果てたことを嘲った。
神に選ばれたイスラエルの民、エルサレムが神の裁きにあい、あまりの落ちぶれように「あは
は」とあざ笑うだけで、自分たちの警告としなかったこれらのイスラエル周辺の国々。 イスラエ
ルへの裁きは、彼らにとって「主なる神こそが主であることを知る」機会であったはずだが、結
局、彼らの心が「主なる神が主であることを知る」ための心が砕かれておらず、むしろ偶像礼
拝によって、強情で高ぶった心、耕されていない頑なな心であったので、裁かれ滅んでしまった
ものと思われる。(口語訳Tサムエル15:23) それと、いくら落ちぶれたとはいえ、イスラエル
は神が選ばれた民、エルサレムは神が愛されていた町である。 嘲笑の的となるような、ひど
い状態であっても、あざ笑うこと、あざけることは、神の裁きをその身に招くということである。
厳粛なことである。
さて、福音書には、主イエスが、弟子や群集に種まきのたとえを話されたことが記されている。
(マタイ13章、マルコ4章、ルカ8章) 主イエスは、このたとえを弟子たちには解き明かされた。
簡単なあらすじはこうである。 種をまく人(キリスト)が、種(御国のことば)を地(人の心)に蒔
いた。 種は4種類の地に落ちた。 道端、岩地、いばらの中の地、良い地。 道端に落ちた種
は鳥に食べられた。 すなわち、聞いても悟らない人で、悪い者にみことばを奪われてしまう。
「自分」の考えをしっかり持っていて、神のことばに対して心がかたくなで、傲慢な人である。
岩地に落ちた種は、すぐに生えてきても根がなく、枯れてしまった。 すなわち、聞いたときに
は喜んでみことばを受け入れるが、困難や迫害が起こると身を引いてしまう人である。 キリス
トを体験せず、心の奥にみことばを受け入れない頭だけの信仰者と言えよう。 また、「世」に
合わせて、「人類みな兄弟」「世界は一つ」などと平和主義をキリストより高々と揚げている人た
ちもいる。
いばらの中に落ちた種は、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結
ばない人である。 要は、信仰が成長しない人のことである。 パウロは、堅い食物を食べるこ
とができるよう、すなわち信仰が成長することを勧めている。 経験によって良い物と悪い物と
(善悪)を見分ける感覚は、「偽り、惑わし、逸らし」が多いこの世で、信仰を全うするために必
要なものである。(ヘブル5:14) 良い地に落ちた種は、三十倍、六十倍、百倍と実を結ぶ。
すなわち、正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせ
る人である。 「良い方は、ひとりだけ(マタイ19:17)」と主が言われたが、「正しい、良い心」
は、人が生まれながらには持っていない心である。 また、努力したり、修行をしても主が言わ
れる「正しい、良い心」はつくれるものではない。 それは、主から与った心だからである。
最近、家庭菜園で少し野菜を作っているが、畑の土地は最初から「良い地」ではない。 常にク
ワなどで耕して有機物や肥料を施して深い土の層をつくる。 耕すときも土のかたまりを砕きな
がら、小石や雑草、木切れなどの雑物を拾い出しておいたり、・・などなど結構、することが多い。
特に、土地を耕すことは、骨の折れる大変な作業である。
同様に、「良い地」も、最初から「良い」わけではない。 聖書を通して、人などを通して、出来事
や環境、状況などを通して語られる「主なる神のことば」を受け入れるための「正しい、良い心」
は、いろいろなことを通して、耕されて整えられていく。 真に主イエス・キリストを受け入れ、聖
霊の導きによって生かされている者は、主がその人の心を整えてくださるであろう。 そのため
に主は、懲らしめ、試練を通すことがある。 新しい土地を耕すときは、なかなかしんどいもので
ある。 深く深く土にクワを入れることは、大変な重労働である。 同様に、主の訓練は、時には
喜ばしいものではなく、悲しい、しんどいと思われることも多々ある。 しかし、それによって鍛え
られる。 後には、必ず、平安な義の実を結ばせるようになる。(ヘブル12:11) 主がそうしてく
ださる。 だから、我々は主の懲らしめから逃げず、よく耐えて、祈り続けていくべきである。
使徒行伝17:11にベレヤの人たちは、「素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおり
かどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた」と書かれているが、本当に主の御前に素直
になることは重要である。 主の御前に素直とは、自分より「主のみこころ」を優先するもので
ある。 「三十倍、六十倍、百倍と実を結ぶ」ということは、それだけ主を深く知っていくというこ
とでもある。 「主を知る」ことには、深さがある。 聖霊に導かれ、心を耕して、耕して、深く深
く「主と主のことば」を知っていきたいものである。 そのために、たとえクリスチャンであっても
まだ堅い地のままではないのかどうか、キリストにあって吟味し、神の前にも人の前にも正直に、
素直になっていきたいものである。 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さな
いで、神の子として訓練されながら、御子イエス・キリストにあるものを受け継ぎ、三十倍、六十
倍、百倍と実を結んでいきたいものである。 そして、主を知ることを切に追い求めていきたい
ものである。
★旧約聖書 ホセア書 6:3
私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現わ
れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。
★旧約聖書
箴言 12:11、28:19
自分の畑を耕す者は食料に飽き足り、むなしいものを追い求める者は貧しさに飽きる。
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