めんどり通信/2012年11月4日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <人が本来おるべき位置は、神のもとである> |
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★旧約聖書 伝道者の書 12:13
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守
れ。これが人間にとってすべてである。
★新約聖書
ヨハネによる福音書 15:4
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。・・・
★旧約聖書 イザヤ書 66:2
――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしの
ことばにおののく者だ。
●マルコによる福音書5章、マタイ8章、ルカ8章に悪霊につかれた人が、イエスによって悪霊
から解放され救われた出来事が記されている。 内容はこうである。 イエスと弟子たちがガリ
ラヤ湖の東側にあるガダラ人の地に着いた。 ここは、ユダヤ人たちから見て、異邦人の地
であり、追放された人たちや「汚れた」人たちの住む所と見なされていた。 そこへイエスは行
かれた。 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来
て、イエスを迎えた。 汚れた霊、すなわち悪霊は「すぐに」、イエスのところにやって来た。 こ
の人は、たびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまって、だ
れにも彼を押えることができなかった。 夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだ
を傷つけていた。 悪霊は「レギオン」と名のり、「大ぜい」いた。
悪霊は、イエスが神の子であることを知っている。 自分が「時」が来たら、永遠の火の池に行
かなければならないことも知っている。 しかし、まだ、「その時」ではなかったので、主イエスに
「豚」の中に入ることの許可を願った。 イエスが許されると、汚れた悪霊どもは2千匹という豚
の中に入った。 2千匹の豚、異常な数である。 2千匹の豚は、険しいがけを駆け降り、湖へ
なだれ落ちて、湖におぼれてしまった。 正気になった人は、主にお供したいと願ったが、主イ
エスは、家に帰って証しをするように言われた。 この人が、本来、おるべき場所に留まり、社
会復帰して、更に主の証し人となることを主は望まれたと思われる。
さて、悪霊は、聖霊の働きを嗅ぎつけると「すぐに」やってくる。 聖霊が大きく働かれようとする
ときには、様々な攻撃を交えての妨げとして働く。 主のご計画を阻止しようとする。 主はご自
身のご計画を遂行されるのに、人を用いられることが多い。 また、人は神のかたちにかたど
られて造られた。 主なる神は、人を用いて、ご自身の栄光をあらわそうとされている。 だか
ら、余計、悪霊は阻止の働きをしてくる。 その方法は、偽りを真実のように思わせたり、真実
から心を逸らさせたり、主のみこころを見失わせたり・・・などなど。 多々種々あるが、「偽り」
「逸らし」「惑わし」はサタンの上等手段と言えるかもしれない。 そして、第一の目的である、人
を真の「主なる神」から引き離そうとする。 主のもとから離れて、人が何を行なおうが、悪しき
霊どもにとっては、痛くも痒くもない。 主のもとから離れては、人は主なる神の望まれることは
何もできないのである。(ヨハネ福15:5)
イエスがこの地上におられた当時は、肉眼で見えるイエスに付いていくことが、ある意味、「主
のもとにおる」ことではあった。
しかし、主イエスは、悪霊から解放されたガダラ人がイエスの
お供をしたい、主と一緒にいたいという願いを許されず、「主があなたに、どんな大きなことをし
てくださったか」を帰って伝えるように言われた。 この「主のことば」に彼は従った。 当時、実
際の体は、イエスから離れていたが、正気になった彼の心と霊は主イエスのもとにいたと言えよ
う。 主のおことばに従い、力強い主の証人となったからである。 またイエスに付き従って
行っても、最後の最後になって主から離れていった者もいる。 現代、我々は肉眼ではイエス
を見ることはできないが、主のもとにとどまることはできる。 肉眼では見ることができなくても
確かに主は生きておられ、聖霊は働いておられることを実感することができるからだ。
マルコ3:11に汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です。」
と叫んだと書いてある。 悪霊はイエスの力を知っており、恐れていた。 だから、主の御前に
一時、ひれ伏しても、主のもとにとどまることはしなかった。 最後の「裁きの時」まで、思う存
分、悪霊として働いて、一人でも多くの者を真の「主なる神」から引き離し、自分たちの道連れ
にしようと躍起になっている。 だから「悪しき霊」と呼ばれるのかもしれない。
人も、「恐れる」と、そこから逃げようとする。 しかし、「恐れる」ことについて、聖書には「人は
神を恐れなければならない(伝道者の書3:14)」とか、「主への恐れはきよく、とこしえまでも変
わらない。(詩篇19:9)」、「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。(エペソ5:21)」などと書
かれている箇所が多々ある。 ここの「恐れる」という単語は、単に恐怖ではない。 「恐れて逃
げよ」ではない。 主の御前に「へりくだって」、「恐れよ」である。 主のもとに「ひれ伏して」、「と
どまれ」ということである。 「畏敬」を含んだ「恐れる」「畏れる」である。 主に「畏敬」を含んだ
「恐れ」を持つ者は、主である神のもとを離れず、その位置にとどまり、へりくだることができる
であろう。 主のもとにとどまり続ける者が、食い尽くすべきものを探し求めながら、歩き回って
いる悪魔から守られ、神のことばを受け取ることができ、勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終
え、信仰を守り通すことができるのであろう。(Tペテロ5:8、9、エペソ6:17、Uテモテ4:7)
クリスチャンであっても救いの中にとどまり続けること、キリストのもとにとどまり続けることは重
要である。 クリスチャンというならば、おるべき位置は、「主のもと」である。 本来、クリスチャ
ンだけではなく、人間がおるべき位置は「主である神のもと」である。 罪を犯す前のアダムとエ
バのように。 今、我々ができることは、日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主と主
のことばの御前にへりくだること、絶えず主の御心を知って祈っていくこと、聖霊の流れに乗って
くことであろう。 主は生きておられる。
★旧約聖書 詩篇 22:23
主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。
イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。
★旧約聖書 伝道者の書 3:14
私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ
加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。
人は神を恐れなければならない。
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