めんどり通信/2012年10月7日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <愛する者が傷つけるのは、まことからである> |
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★旧約聖書 申命記 32:39
・・わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。・・
★旧約聖書(口語訳) 箴言 20:30
愛する者が傷つけるのは、まことからであり、あだの口づけするのは偽りからである。
★新約聖書(口語訳) ガラテヤ人への手紙
5:16,18
わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことは ない。・・・もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。 ●旧約時代、最初のイスラエル王はサウルだったが、アモン人との戦いで大勝利をおさめ、
華々しくデビューした。 その後、ペリシテ人との戦いがあったが、当時、イスラエルはペリシテ
の支配下で、武装禁止で、農具の鉄工さえもペリシテ人に依頼しなければならない状態だっ
た。 当然、戦いは、劣勢で、民は、臆病になってサウルから離れていこうとした。 サムエル
が来て、いけにえをささげ、主のことば(なすべきこと)をサウルに聞かせることになっていた
が、7日間待ってもサムエルが来なかった。 それでサウルは民の志気を高めるためにサウル
自らが、いけにえをささげた。(Tサムエル記13章)
サウルが、いけにえをささげ終わったとき、サムエルがやって来た。 「あなたは愚かなことをし
た。」とサウルはサムエルから叱責を受けた。 いけにえをささげることは、祭司がする職務で
あって、王はしてはならないのだ。 また、「あなたの王国は続かない」とサムエルはサウルに
告げた。 サウルから出る言葉は、言い訳けだけだった。(Tサムエル13:11-12) 戦いは、
主がイスラエルと共におられたので、イスラエルは善戦した。
また、サウルは、サムエルから「行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。」と主
のことば、命令を聞いた。 ところが、サウルは最も良いものを惜しんで残し、ただ、つまらな
い、値打ちのないものだけを聖絶した。 そのことをサムエルに指摘されると、「私は主の御声
に聞き従いました。」と言い切り、「しかし民は・・・羊と牛を取って来たのです。」「私は民を恐れ
て、彼らの声に従ったのです。」と民のせいにした。 そしてサムエルに「主もあなたを王位から
退けた。」と預言されると、「私は罪を犯しました。」と言いつつも、「・・・どうか今は、私の民の
長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。・・・」とあくまで自分の見栄を張ることを
押し通そうとした。(Tサムエル記15章)
このようにサムエルは、サウルに警告、指摘、預言など「主のことば」を告げた。 しかし、サウ
ルは警告のことばを警告として、指摘のことばを指摘として、預言のことばを預言として受け取
っていない。 「主のことば」より、自分のことが優先であったからだ。 主のことより自分の思
い、考え、願いを押し通すことを離さなかったからだ。
また、サウルは「私は民を恐れて」ということば通り、人を恐れていた。 サウルの場合、単に
自分を守るために「人を恐れる」とか、いろいろな出来事による過去の傷からの「人を恐れる」
ではないようである。 サウルの場合、 「人を恐れる」という反面、「人に自分を良くみせたい」
という両面があったと思われる。 例えば、水に丸いボールを浮かべたとき、水面上に見える
部分が表とし、水面下にある部分が裏とする。 水面上に見える部分が「人を恐れる」という感
情、行動、言葉が表われたとして、何かの拍子にボールがくるりと回って反対になると水面下で、
それまで見えなかった部分が見え、表われる。
その裏の部分が「人に自分を良くみせたい」という裏の肉の部分と思われる。 文字で表すな
ら、「人を恐れる」⇔「人に自分を良くみせたい」であり、「人を恐れる」=「人に自分を良くみせ
たい」と書けるかもしれない。 どちらもサウルである。 「人を恐れる」ことは、ある意味、自分
を卑下することであり、悲劇の主人公のような心持ちになる。 自分を卑下することも悲劇の主
人公になることも、時には、悪霊につけこまれる要素になる。 聖書にも「人を恐れるとわなに
かかる。(箴言29:25)」、「・・恐れる者の愛は、全きものとなっていない・・(Tヨハネ4:18)」と
書かれている。 また、「卑下(ひげ)も自慢の中(うち)」ということわざがあるように、高ぶる要素
になり得る。<表面では謙遜していても、実はそれを美徳として自慢しているということ。>
ちなみに「自慢高慢馬鹿のうち」ということわざもある。<自分の能力を自慢したり、偉ぶったり
する者は、ばか者と同類である。>
さて、皆がみなそうとは言えないかもしれないが、「人に自分を良くみせたい」という願いは、そ
の奥に高ぶり、高慢な思いがあり、何でも自分を中心に考え、エゴイズム(利己主義)になる可
能性がある。 サウル王の生き様からそのように見受けられる。 自分が人や国を支配してい
ても、自分自身を支配されるのは主なる神であること。 自分と共に主がおられるだけでなく、
自分の上には主なる神、キリストがおられること。 いつもこのことを決して忘れてはならない。
そうでないと、人は、高ぶりが起こるような条件が揃うと、すぐに高ぶってしまう。 サウルのよ
うに。 自分では、主から離れていないと思い込んでいても、キリストから見れば、主と離れて
いるということがあり得る。
結局、サウルは自我が砕かれておらず、自我丸出しの生き様になっていたようである。 だか
ら、主からの警告、指摘、預言の「ことば」を正しく受け取れなかったのであろう。 我々は、こ
のことを反面教師として深く受け止めるべきである。 「主のことば」を主が望まれるように受け
取るのに邪魔するのが、自我であり、肉(生まれながらの性質、聖霊によって歩んでいない性
質)である。 祈っていたら、知らないうちに変わっていた、ということは、少々はあるかもしれな
いが、その人が大きく変わることについては、やはり自我が砕かれたり、肉が切り取られたり
する必要がある。
だから主は、神の子を訓練され、試される。 聖書に「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られ
た品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す(ローマ5:3-5)」と書かれている。 神か
らの訓練、試練、試しによる苦しさ、つらさ、怒りを、キリストにあって耐え忍ぶことは、肉が切り
取られる痛さがある。 その痛さによって自我は砕かれる。 それがまた痛い。 また、傷つくこ
ともある。 とかく人は、傷つくことを恐れる傾向がある。 「人に自分を良くみせたい」という思
い、願いが強い人ほど傷つくことを嫌うかもしれない。 しかし、主は人を変えるため、砕くため
に、傷をつけ、痛さを体験させる。 しかし、決して、そのまま放置なさることはない。 その人
が、他に解決策を求めず、他のものに頼らず、主に心を向け、主に頼り求め続けるならば、必
ず、いやしを与えてくださり、解放してくださる。 変えてくださる。 そして自我が砕かれ、肉が
切り取られていくうちに、それまで持ち続けることが困難だった「希望」を、しっかりと持つことが
できるようになる。 その「希望」は、イエス・キリストにおける希望である。 そして、この希望は
失望に終わることがない。(ローマ5:5)
いずれにしても、日々の生活において、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主と主のこ
とばの御前にへりくだり、聖霊の流れに乗っていくことに努めたいものである。 聖霊の流れに
乗り続けているなら、主がその人に応じて自我を砕き、肉を切り取ってくださって練られた品性
が心の奥から漂う者、生き生きした者に変えてくださるであろう。
★旧約聖書 エレミヤ書
17:5
主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわ れよ。」 ★旧約聖書 箴言 20:30
打って傷つけるのは悪を洗い落とすため。腹の底まで打ちたたけ。
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