めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年9月30日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
主から目を離さないこと、すなわち主を信頼すること!>



★新約聖書 ヘブル人への手紙 12:2
   信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。・・・
 
★旧約聖書 詩篇 34:8
   主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。
 
★旧約聖書 詩篇 119:71
   苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びま
   した。

●自分は罪人だと悟り、自分の罪のために、イエスが身代わりとなられて十字架で死んでくだ
さり、3日目によみがえられて今も生きておられると信じた者。 自分の罪を悔い改めて、主イ
エス・キリストを自分の救い主であり、主なる神であると受け入れた者。 すなわちクリスチャン
と呼ばれる者は、主を愛し、主に目を留め、主から目を離さないことは、ある意味、基本的なこ
とであり、当然のことである。 それは、「主に信頼する」ことであり、「主と共に歩む」ことであ
る。 しかし、現実、日々の生活の中では、そのことは難しいという人が案外、多いかもしれな
い。 確かに、主を信じて間もない人や主を受け入れても、その後の成長が何らかの理由でな
されていない人にとっては、難しいというより、できないときが多いと思われる。 中には、主を
受け入れて間もない人であっても、「主に目を留める」ことに真剣に取り組み、できている人が
おられるのも事実である。 いずれにしてもとにかく、主を受け入れた者は、それまでの生き
方、自分が変わるために「主に目を注ぐこと」「主に心を向けること」に取り組むべきである。 
そうでないと、神からの本当の恵みを享受することがで きないからだ。
 
さて、「主を愛します。」「主を愛しています。」「主に心を向けています。」「主に目を留めていま
す。」「主に従っています。」と口で言い切ることができても、実際は難しいものである。 言うこ
とはたやすい。 しかし、実際が伴っているかどうかが重要である。 告白、宣言が口だけの者
も多い。 「言うは易く行うは難し」ということわざがあるが、その通りである。  ペテロの場合。 
本名はバルヨナ・シモン。 主イエスに「わたしについて来なさい。」と言われたとき、漁師だっ
たが、すぐに網を捨てて従った。 名前をイエスから「ペテロ(岩、石の意)」と与えられ、イエス
の12弟子の筆頭弟子となった。 常に主の傍にいて、主が現わされる神のみわざを見、主が
語られる「ことば」を一番近くで聞いた。 奥義を知ることを許されていた。 主の元で多くの経
験をし、多くの失敗をし、時には、主からしかられた。 
 
そのペテロが、水の上を歩いた。 夜中の3時頃、弟子たちだけが乗った舟が、ガリラヤ湖上
で向かい風で進めず立ち往生していたときのことであった。 イエスに水の上を歩いて主のとこ
ろに行くことの許可を得て、水上歩行を始めた。 ペテロはイエスの方へと水の上を歩き出し
た。 ところが風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言っ
た。(マタイ14:30) いつもいつも主の傍にいて、絶えず主を見ていたはずのペテロ。 まして、
暗やみの中、ぼんやりとでも見えるイエスの姿を凝視しなくてはならない状況のときに風に目を
奪われてしまったペテロ。 要は、イエスから目を離して、風を見た。 そのときから「恐さ」がペ
テロの心を占め、沈み始めたのだ。
 
聖書はいつも「主から目を離すな」と書かれている。 また、いつも「主を見つめよ」「主に目を
注げ」とも書かれている。(ヘブル12:2、詩篇25:15、34:8) しかし、ペテロでさえ、主から目を
離してはならない状況のときに、目を離してしまった。 ペテロのことは人事ではない。 我々に
も「向かい風」は吹く。 我々がキリストにあって進もうとしているときには必ずと言っていいほ
ど「向かい風」は吹く。 「向かい風」とは、人によって状況であったり、誘惑であったり、病で
あったり、問題、出来事であったりと様々であろう。 いずれにしても、どのような「向かい風」で
あったとしても、主を見ているなら沈むことはない。 「主から目を離す」ことが問題である。 し
かし、「いざっ!」というときに、その人が何を重要視しているかが表れる。 常々、「主を愛して
いる」、「主に目を留めている」と言っても、「いざっ!」というときに、他を見るならば、ペテロ
と同じように、そこから沈み始める。 悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを
捜し求めながら、歩き回っている。(Tペテロ5:8) 人が、主から目を離したときが、悪霊ども
にとっては、好機のときである。
 
日々の生活の中で、人には、「いざっ!」というときが、大小に関わらず多々ある。 そのときに
その人の本性、本音、また信仰があらわれるものであろう。 「主から目を離さない」「主に目を
留める」「主に心を注ぐ」「主を見る」ことを、主は人に対して望まれている。 また、そのように
できる者に変えようとされる。 だれでも最初からうまくいかない。 このことは、自分で気をつ
けてもできるものでもない。 我々人は、アダムとエバ以来の性質(罪の性質)を受け継いでい
るのである。 主イエス・キリストを信じて、罪が赦されたと言っても、その性質がすぐにパッと
変わるわけではない。 変わるには、「主を見続ける」ことが必要であり、「変わる」というより、
主によって「変えられる」のである。 祈っていたら、自然に知らないうちに変わっていたなどと
いうことはない。 本当に祈っていたら、主は、真剣に祈り求める者を変えるために、その人に
応じて、様々な訓練試練を通す。 
 
ペテロが水上歩行する前、「イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませた」と書かれている
(マタイ14:22、マルコ6:45) ペテロたちの訓練のための神の采配、主のご計画であったこと
が見受けられる。 また、ペテロは、その後も主イエス・キリストからの様々な訓練試練を受
け、様々な苦しみを通った。 そして、見事に真に主イエス・キリストを愛する者に変えられた。 
ペテロの最期は、逆さ十字架での殉教だった。 「キリストも、あなたがたのために苦しみを受
け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残され。(Tペテロ2:21)」と聖書に書かれ
ている。本来、イエスは苦しみを通らなくてもよかった。  すべては我々のためである。 
 
我々は、その主の足跡に従うということは、我々も真に、「主に信頼する」「主を見続ける」ため
には、苦しみを通るということである。  我々の場合は、自我が砕かれ、肉が切り取られるな
どの苦しみ、また理不尽なことによる苦しみなどである。 聖くなるための苦しみとも言える。 
しかし、パウロは「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に
比べれば、取るに足りないものと」考えていると言っている。(ローマ8:18) 我々も心の底か
ら、そのように思えるようになりたいものである。 ただ、このことは簡単なようで 難しい。 現
代は、「世」が強い。 「世」が悪い。 結婚観の変化、地縁社会が崩壊し、無縁社会化、自殺
率の高さ、孤独死の増加、ネットカフェ難民、終身雇用制度の崩壊、激しい変化の中の二極化
(個人、国、会社など世界中に見られる社会の中での急激な貧富の格差の肥大)・・・などな
ど。 「世」の君、支配者はサタンであるから仕方がない。(ヨハネ福16:11) 「主から目を離さ
ないこと」は何と難しいことか! 本当につくづくそう思う。 
 
しかし、主から目を離さない神の子であるなら、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ約束された
祝福の中に置かれる。(マタイ13:23) そして、何よりも「主から目を離さないこと」を主なる神、
主イエス・キリスト御自身が望んでくださっている。 そして「主から目を離さない」「主に信頼す
る」「主に心を注ぐ」ことを、真剣に取り組み、求める者に、主は目を留めてくださり、変えてくだ
さる。 
 
我々は、一旦、自分の心に正直になっているかどうか、絶えず本当に「主を見ている」かどう
か、「主を見ている」という者もキリストにあって、自分の信仰を吟味してみることは大切なこと
である。 「主を見ている」と安易に思い込んでいる場合が結構、多いからだ。 我々が自分
の力で「向かい風」を鎮めることはできない。 我々のために働いてくださっているその主の働
き、主のみわざが存分に、我々の上に現われるようにしていただきたいものである。 そして
我々自身が、「向かい風」にならないように十分注意しなければならない。 そういうこともない
とは言えないからだ。
 
とにかく日々、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねること、いつも祈ること、神
に依り頼むことをしていきたいものである。 また、神のことばと信じて聖書を読み、聖霊の流
れに乗っていきたいものである。 主は生きておられる。
 
★新約聖書 ヨハネの手紙 第一 5:6-10
   ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たので
   す。 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄
   光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全
   にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
 
★新約聖書 ピリピ人への手紙 2:6-8
   キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えな
   いで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリスト
   は人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にま
   でも従われたのです。


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