めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年8月19日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<純粋な「キリスト」という門から入り、細い道を心を尽くして真剣に歩め!>



★旧約聖書 申命記 31:3
   あなたの神、主ご自身が、あなたの先に渡って行かれ、あなたの前からこれらの国々を
   根絶やしにされ、あなたはこれらを占領しよう。主が告げられたように、ヨシュアが、あな
   たの先に立って渡るのである。
 
★新約聖書 マタイによる福音書 7:13、14
   狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこか
   らはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだ
   す者はまれです。
 
★旧約聖書 申命記 30:19,20
   私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福と
   のろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生
   き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。・・・・。
 
● 旧約の出エジプトして、荒野を通って約束のカナンの地に入った過程は、ある意味、クリス
チャン人生の予表として見ることができる。 エジプトで奴隷として苦しみ叫んでいたイスラエル
人を神はあわれんでくださり、モーセを立てて、そこから脱出させてくださった。 彼らが奴隷と
されていたエジプトの地と約束のカナンの地との間には紅海があった。 神は紅海の水を強い
東風で海と陸地に分けた。 水は、右と左で壁となり、イスラエル人は海の真中のかわいた地
を歩いて渡った。 エジプト人たちは溺れて渡ることができなかった。 
 
イスラエル人たちは水で守られた道を通り、その後、荒野の訓練が40年あった。 そこで試さ
れ、訓練を受けた。 結果、多くのイスラエル人たちは約束の地に入れなかった。 もしかした
らイスラエル人たちが不信仰と不従順を繰り返さなかったら、荒野の訓練は40年間もなかった
かもしれない。 40年かかっただけでなく、約束の地にヨシュアとカレブを除いて他、一世代目
の者たちが入れなかった原因は多々あるが、その中でも特に、神のことば「主は道々あなた
がたの先に立って行く」(申命記31:3)を無下(むげ)にし、自分たちの思いや考え、願いが先
行したことであろう。 
 
また、モーセの律法をイエスは2つにまとめているが、@「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽く
し、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、Aあなたの隣人をあなた自身のように愛
せよ。」である。 主が言われるこの2つの戒めは、@がまず優先であって、@あって次にA
ある。 「神を愛すること」が最優先である。 このことは、今日の我々クリスチャンもしっかりと
把握する必要がある。 @Aが逆転するなら、神の御心に従ったとは言えないからである。 
 
イエスは「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、
そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだ
す者はまれです。(マタイ7:13、14)」と言われた。 そして、主は「わたしは門である(ヨハネ福1
0:9)」と言われた。 
 
イスラエル人たちは、神が立てられたモーセに導かれ、紅海という狭い門を通って、荒野に出
た。 狭い門を通った者は必ず、荒野の訓練を受ける。 それぞれ人に応じて、主は訓練試練
を通させる。 艱難辛苦の荒野の旅は細い道である。 そこで人は試され、砕かれ、清められ
て、何があっても神の前にへりくだり、神を愛する者へと変えられ整えられていく。 その道で
も、必ず、主が先に立って行かれる。 主が共に歩んでくださる。 だから、主の後から従って
いくことは決して難しいことではない。 難しくしているのは、自我であり自己、自分中心の願
い、自分の考えや思いであり、要は自分が基準になっていることである。 だから、砕かれて
いない者は、自分の我を押し通して、主より先に行き、主から離れて、あらゆる誘惑をいとも
簡単に受け入れてしまう。 そうして惑わし逸らしの道へと陥って行くことになる。 荒野で滅ん
でいったイスラエル人たちのように。 だから、荒野の訓練がある。 神の子だからである
(ヘブル12章) 
 
神の訓練試練、神の試しのたびに不信仰にならず、不従順にならず、主によりすがるならば、
自我は砕かれ、肉は切り取られていく。 そして、どのような出来事があろうとも、どのような状
況になろうとも、心の奥底、霊は動じず、段々と平安で過ごすことができるようになってくる。 
ますます主イエス・キリストを信頼し、愛することができるようになってくる。 
 
Tコリント10:11にはイスラエル人たちが滅ぼされたのは「世の終わりに臨んでいる私たちへ
の教訓とするため」であると書かれている。 我々は、この教訓をしっかりと受け止めることが
重要である。 今日、キリスト教といえども「狭い門」、すなわち「イエス・キリストの門」は、昔に
比べ、偽や混ざり物が混入した「イエス・キリストの門」がある。 聖母マリヤの助けを得た「イ
エス・キリストの門」、可能性思考などを取り入れた「イエス・キリストの門」、ご利益信仰を盛り
込んだ「イエス・キリストの門」・・・などなど。 その中から純粋に、主が言われる本物の「イエ
ス・キリストの門」を選ぶところから始まる。
 
そして、その「狭い門」から入った者は、細く狭い道を通らなければならない。 人のうちには神
を愛する愛がない。 人が神を愛するようになるためには、人のうちにある自己中心的なもの
が砕かれ、肉が切り取られて、本当に心から神を愛することができるようになる。 「神を愛す
る」者が、主が先に立って行ってくださる後ろから従うことができ、時には主のそばに寄り添っ
て歩むことができ、常にAより@のことばを優先することができる。 クリスチャンであるなら人
生の旅路、どのような苦難があろうとも心を尽くして、真剣にまっすぐ進んで行きたいものであ
る。 純粋な「イエス・キリストの門」から入ったならば、なお更、先立って進んでくださる主から
離れないように、しっかりつながって従っていきたいものである。 
 
いずれにしても信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、主の御前に素
直になり、主を愛していきたいものである。 何か失敗したり、自分の愚かさや弱さを思い知ら
されたりしたとき、素直に神の前にへりくだって、あわれみを求めたり、心から悔い改めたりし
て、肉を切り取っていただきたいものである。 
 
★旧約聖書 詩篇 119:30
   私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました。
 
★新約聖書 ユダ書 1:25
   すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イ
   エス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。
 



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