めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年8月12日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<主のことばを聞いて、主の御心、御思いを知り、主みこころを行なう>



★旧約聖書 伝道者の書 5:1
   ・・・近寄って聞くことは、愚かな者がいけにえをささげるのにまさる。・・・
 
★新約聖書(口語訳) コリント人への手紙 第一  2:16
   「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリスト
   の思いを持っている。
 
★新約聖書 ヤコブの手紙 4:15
   むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このこ
   とを、または、あのことをしよう。」
 
●出エジプトしたイスラエル人たちの言動から、今日の我々は いろいろな方面から警告や学
びを受け取ることができる。 「私たちへの戒めのためです(Tコリント10:6)」と書かれている
通りである。 モーセに率いられてイスラエル人たちは、エジプトを出て50日目にシナイの荒野
に入った。 ここでイスラエル人たちは、主と契約を結んだ。 主は、「今、もしあなたがたが、
まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の
中にあって、わたしの宝となる。 全世界はわたしのものであるから。 あなたがたはわたしに
とって祭司の王国、聖なる国民となる。」とモーセを通して言われた。 モーセを通して、そのこ
とばを聞いたイスラエル人たちは「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」みな
口をそろえて答えた。(出エジプト19:5,6,8)
 
イスラエル人たちは、エジプトでエジプト人に下された十の災い(しるし)を見ており、その中で
の奇跡的な守りを体験し、あの紅海の奇跡も体験していた。 だから、自分たちは大丈夫、主
の仰せられたことは、できる、と安易に考えたのかもしれない。 主はまず、「あなたがたが、ま
ことにわたしの声に聞き従い」と語られているのに、「主が仰せられたことを、みな行ないま
す。」と答えていることから彼らの軽さが伺える。 本当は、「主の声に聞き従います。」と答える
べきであろう。 又は「主の声に聞き従いますから、助け導いてください。」と言うべきであろう。
 
案の定、その後のイスラエル人たちは何度もつぶやき、罪を犯し、主の忌み嫌われることを繰
り返した。 結局、神の怒りに触れ、当時、出エジプトした二十歳以上のイスラエル人たちは、
カレブとヨシュア以外は、神の約束の乳と蜜の流れるカナンの地に入れなかった。 「聞かない
こと」と「軽さ」は厄介である。 主イエスは「聞くこと」の重要性を語られた。 「聞いていることに
よく注意しなさい。(マルコ4:24)」「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。(マ
ルコ7:14)」「聞き方に注意しなさい。(ルカ8:18)」「聞く耳のある者は聞きなさい。(マルコ4:
9)」・・・である。
 
「聞く」ことは、主のことばを聞くが、単に、音声で聞くというのではない。 人の心の深いとこ
ろ、「霊」で聞く。 そこには、「人」の基準の考え、思いは働かない。 だから、主が悟らせて
くださる。 「主」が基準だからである。 しかし、「聞かないこと」は、「自分」が基準となっている
可能性が多い。 それは、全く「聞かない」ではなく、頭では聞く。 生まれながらの知恵で捉
え、考え、「その人」の基準で理解しようとする聞き方である。 心の奥、霊で「聞かなく」ても、
「主のことば」を行なうことはできる。 「自分」を基準として考え、思い、その通りにするからで
ある。 そこには、主のみこころを知ろうとするところはない。 だから、「みな行ないます。」
との盟約が希薄になる時が必ず来る。 出エジプトしたイスラエル人たちが いい例である。
 
また、「軽さ」についても その「軽さ」が純粋ならば、主に対しても純粋になれる可能性がある
と思われるが、、案外、「軽さ」の奥に、自分の願いを貫き通そうとする思い、そういう自分、すな
わち強い自我が潜んでいる可能性がある。 その自我は砕かれることが、主のみこころである。 
 
12弟子の筆頭であるペテロの本名は、バルヨナ・シモン。 シモンは、ヘブライ語のシメオンを
ギリシャ語に音訳したものであり、意味は「聞く」である。 その名の通り、シモン・ペテロは、主
イエスの傍らにいて、絶えず「主の声」「主のことば」を聞いた。 尋ねもした。 行ないもした。 
多くの失敗もした。 そして、その度、また主イエスの「ことば」を聞いた。 そして、砕かれてい
った。 そうして、ますます、主の愛を知り(感じ)、主の御心、主の御思いを知っていき、主を
深く、深く愛するように変えられていった。 やがて、主のために大いに用いられる器と整えら
れ、存分に主のみこころを行ない、主が喜ばれる者となった。 
 
出エジプトしたイスラエル人たちのように、奇跡を見、体験したとしても、それで「主なる神を
知った」とはいえない。 ある程度、知ったかもしれないが、神の御思いや御心、神の願いを
知っていない。 神の愛を知っているようで知っていない。 だから、神が望まれるほどの深
さで、神を愛することができない。 結局、出エジプトしたイスラエル人たちとシモン・ペテロの違
いは、砕かれていたか砕かれていなかったかである。 イスラエル人たちは荒野で、「神がとも
におられた」。 シモン・ペテロも約3年半、いつも主イエスが傍らにおられた。 どちらも「主の
ことば」を聞いた。 どちらも神の奇跡を見、体験した。 どちらも訓練を受けた。 しかし、一方
は砕かれず、一方は砕かれ、変えられた。 イスラエル人たちは、神に「実にうなじのこわい民
だ」(出32:9)と言い放されたが、ペテロは主に喜ばれた。 ちなみに、「うなじの強(こわ)い」と
は、相手のいうことを聞かない、強情であるということだ。 
 
自我が砕かれ、肉が切り取られ、変えられていくことが重要である。 砕かれた分だけ、神の
恵みを深みで受け取ることができ、神の愛を深いところで実感することができるからだ。 いず
れにしても、主からの訓練試練を受けたときには、強情にならず、素直になって変えられてい
きたいものである。 主イエスは言われた。「天の御国にはいるの天におられるわたしの
父のみこころを行なう者だけである」(マタイ7:21)と。
 
まず、ペテロのように、素直に「主の声」「主のことば」を「聞く」ことである。 「主のことば」は、
一人一人に応じ、聖書を通して、(牧会者など)人を通して、また直接、与えられる。 語られ
る。 それを(霊の耳で)「聞く」ことである。 また、ペテロのように主に尋ねることである。 主
からの訓練試練が与えられたなら、素直に砕かれることである。 (生まれながらの)自分の考
えや感情、思いを貫かないことである。 「神がまず私たちを愛してくださったから」、その愛を
心の深みで受け取っていき、その愛を受けて、主を愛していくことである。 そうすると主の御
心、主の御思いを知っていき、主の望まれるように、主のみこころを行なっていくことができる
ようになるだろう。 とにかく日々の生活において、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、
聖書を読み、祈っていくこと、そして主と主のことばの御前にへりくだり、聖霊の流れに乗って
いきたいものである。 
 
★新約聖書  エペソ人への手紙 5:17
   ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
 
★新約聖書(口語訳) ローマ人への手紙 11:34
    だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか



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