めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年7月22日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<主の恵みを疑いなく素直に受け入れることが神の前にへりくだることでもある>



★新約聖書 ヤコブの手紙 1:21
   ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すな
   おに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
 
★新約聖書 ペテロの手紙 第一 2:24
   そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たち
   が罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、
   いやされたのです。

★旧約聖書 歴代誌 第二 7:14
   わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの
   顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を
   赦し、彼らの地をいやそう。 
 
●聖書を通読するにおいて、最初、創世記から始まる。 その創世記に登場してくるヤコブ(改
名後イスラエル)の子ヨセフとその兄弟の終盤について見てみる。 父であるヤコブから特別
に愛されたヨセフは兄たちから反目され、エジプトに行くイシュマエル人(ミデアン人)に売られ
た。 兄たちは、父ヤコブには、ヨセフが死んだと思わせる細工をして報告した。 
 
エジプトに売られたヨセフは、常に神が共におられ、様々な苦境さえも益にしていただいた。 
ヨセフ自身も、自分は神に導かれているという信仰が明確だった。 あるとき、ヨセフが、最初
の7年間は大豊作、続く7年間は国が滅ぶほどの大飢饉というパロの夢の解き明かしを神か
ら与えられ、エジプトの宰相に抜擢された。 そして、夢の通りになり、国はヨセフの備え政策
によって救われた。 そして世界中が穀物を買うために、エジプトのヨセフのところに来た。 
 
その頃、ヨセフの兄たちも父ヤコブに言われて、末のベニヤミン以外が、エジプトで穀物を買う
ために、下って行った。 このベニヤミンがヨセフと同じ母の子であった。 兄弟たちがヨセフの
前に立ったとき、ヨセフには、兄弟たちだとわかったが、彼らにはヨセフだとはわからなかっ
た。 ヨセフが、兄弟たちに「自分は実はヨセフだ」と名乗るまでに、ヨセフは兄弟たちにスパイ
の嫌疑をかけたり、三日間、彼らを監禁したり、その後、兄たちのうちのひとりシメオンを人質
として監禁し、他の兄たちには穀物を持たせて帰し、今度、来るときには、末の弟を連れて来
て、嫌疑を晴らすように命じたりした。 
 
シメオン以外の兄たちは穀物を持って帰り、父ヤコブに詳細を話した。 ヤコブにとっては衝撃
的なことだったと思われる。 その後、兄弟たちは再びエジプトへ向かった。 今度はヨセフの
要求通り、ベニヤミンも一緒だった。 兄弟が揃ったところで、ヨセフは食事を一緒にするため
彼らをヨセフの家に連れてきた。 このときはまだ名乗っていなかった。 それでも楽しいひと
時であった。 そのときが終わり、兄弟たちは送り出された。 しかし、銀の杯をベニヤミンが
盗んだことにするというヨセフの画策がなされた。 ヨセフは、そのことによって、兄弟たちの様
子を知ろうとした。 そして、兄弟たちが、かつてヨセフを疎んじたようにベニヤミンは疎んじて
おらず、むしろ兄弟たちが、ベニヤミンの不幸を我がことのように嘆き、父ヤコブの苦しみを自
分の苦しみとするくらい、父を愛していることも知ることができた。 
 
そのような兄弟を見て、ヨセフは彼らに「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。
(創世記45:4)」と名乗った。 兄弟たちは驚きと恐れ、不安が入り混じった複雑な心境だった
と思われる。 ヨセフは、兄弟たちに「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりして
はなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったので
す。 ・・・だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。・・・
(創世記45:5-8)」とやさしく話した。 
 
すべてを聞いたヤコブは、ヨセフがいなくなったときの真相も初めて知り、呆然としたが、ヨセフ
が話したことを残らず聞き、 ヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見ると、元気づい
た。 年老いて、苦労の多かったヤコブに生きることの意欲が起きてきた。 そうして、ヤコブと
その一族はヨセフのいるエジプトへ出立した。 感動の再会となった。 その後、ヨセフはエジ
プトでヤコブとその家族(一族)を養った。 
 
ヨセフとヨセフを売った兄弟たちとの間は、完全に回復したように見えた。 ところが、ヤコブが
死ぬと、兄弟たちは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返
しをするかもしれない。(創世記50:15)」と恐れた。 そして「赦してください」とヨセフの前に来
てひれ伏した。 ヨセフは彼らのことばを聞いて泣き、再度、もう恐れることはないと慰め、彼ら
を養うことを優しく語りかけた。 
 
こうして見るとき、一連の流れ、出来事はすべて必要であったとわかる。 世界的な大飢饉。 
ベニヤミンに対する偏愛、固執のゆえ、ヤコブはベニヤミンをエジプトへ行かせなかったこと。 
ベニヤミンがヨセフの前に他の兄弟と一緒にいなかったことで、ヨセフの弟と父ヤコブの安否
を確かめるためにヨセフが兄たちにスパイの嫌疑をかけたこと。 三日間、兄たちが監禁され
たことによって、兄たちに罪を自覚させることになったこと。 ヨセフの執拗な質問。 それに
よって、兄たちは父ヤコブやヨセフの弟ベニヤミンのことなど詳細に話さなければならなくなっ
たこと。 二度目にエジプトまでに行くまで時間がかかったこと。 ヤコブの死によって、ヨセフ
の兄弟たちが罪の深さを知り、真の悔い改めができ、ヨセフと真の和解ができたこと。・・・・な
どすべて神のご計画の中にあったことがわかる。 ヨセフが兄弟たちに「神は、悪を良いことの
ための計らいとなさいましたと話した通りである。(創世記50:20) 神の配慮、神の采配をみ
ることができる。
 
ただ、このところを読んでつくづく思ったことは、人という者は、自分でも知らない、気づいてい
ないアダムとエバ以来の深いものがあるということだ。 「罪」は根深いものであり、人が正しい
思考を持つことを妨げるものであるということ。 神が良くしてくださった事実、実績、実際が
あったとしてもいざ、というときには結局、悔い改まっていないものが出てくる可能性があるとい
うこと。 また、心底からの「悔い改め」がなければ、「赦し」という最大の恵みを素直に受け取
れない可能性があること。 むしろ疑いの思いが出て来る可能性がある者だと、つくづく思っ
た。 そして、聖書に書いている通り、「罪」は聖霊によって教えられて、「罪」を本当に「罪」とし
て深く捕らえることができるものであること。 「悔い改め」も聖霊に導かれてするのでなけれ
ば、心底からの悔い改めができないものである、と痛感した。 我々が真の悔い改めをしてい
るとき、聖霊が導いてくださっていることに感謝する!
 
キリストは、私たちの罪のために十字架で死なれたこと。葬られたこと。三日目によみがえら
れたこと。キリストは、人に本当の救いを与えようと今も働いておられること。(Tコリント15:3-
5)」は事実である。 真実、実際である。 ただ、この重大なことが、我々一人ひとりの事実、実
際、真実となっているかどうか、改めて自分に問うてみることが必要であると感じた。 そんなこ
とはわかり切ったことと一蹴するのではなく、深みに入って受け取ることが重要であるとつくづ
く思った。 主は生きておられる。 その生きておられる主を愛し、真の聖霊の流れに乗り続け
ていける者としていただきたいものである。 
 
★旧約聖書 イザヤ書 66:2
   ――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことば
   におののく者だ。





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