めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年7月8日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<偽善を排除し、本心、本音が神に忌み嫌われないようにすべきである>



★新約聖書 ヘブル人への手紙 4:13
   造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であ
   り、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
 
★旧約聖書 サムエル記 第二 22:29
   主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。
 
★旧約聖書 詩篇 139:23,24
   神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
   私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
 
主イエスは、悪魔を「偽りの父である」と言われた。(ヨハネ福8:44) 主は偽りを憎まれる。 
「偽りを言う者を滅ぼされる(詩篇5:6)」 とも書かれている。 イエスは、パリサイ人たち、律法
学者たちを「あなたがたは、わざわいである」「忌わしいものだ」と言われた。 
 
当時、パリサイ人たちや律法学者たちは、人々を教える立場であり、人々からも尊敬されてい
た。 また、彼ら自身も自らを「義人」と自負していた。 しかし、人の外側を見られず、人の内
面、心を見られる主イエスは、「あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、そ
の内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです(ルカ11:39)」「あなたがたも、外側は人に正しいと見
えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。(マタイ23:28)」と、彼らの「偽善」を指摘された。 
 
「偽善」と訳されたギリシャ語ヒュポクリシスは、「仮面芝居」や「演技」が元々の意味だという。 
「偽善」という日本語の意味は、「上辺だけ良いことだと見せかけること。善人だと思われようと
すること。」だが、本心を隠しながら、外側を演技によって装い、自分を善人に見せることは、
一般的に行なわれていることである。 特に日本人は、昔から本音と建前を上手に使い分けて
きた。 本音と建前を使い分けることすべてを神が忌み嫌われているのではないと思われる。 
ただ、その内側、本心、本音が神に忌み嫌われるものかどうかが問題となる。 
 
パリサイ人たちや律法学者たちの本心、本音は「強奪と邪悪」な思い、口先だけ、見栄、高ぶ
り、不敬虔、偽善、不法・・であった。 しかし、彼らは信仰深く装い、敬虔なフリをした。 そし
て、多くの人々に影響を与えた。 だから、イエスは彼らを非難した。 憎いというだけで非難さ
れたのではない。 「忌わしい」ということばは、原語のギリシャ語では、怒りと悲しみが含まれ
ているという。 主イエス・キリストは義なる方である。 だから、「偽り」「偽善」を許しておくこと
はできない。 しかし、彼らを愛しているがゆえに、激しい痛みと悲しみをもって厳しいことばを
語られたのである。 
 
さて、ルカによる福音書19章に登場してくるザアカイについて。 ザアカイは、当時のユダヤ人
たちが嫌っていた取税人のかしらであった。 イスラエルは、ローマの属国だったことと、決め
られた以上の取立てをして私服を肥やしていたということなどで、ザアカイは人々から嫌われて
いた。 罪人扱いまでされるほど嫌われていた。 それほどのことをしていたことも事実であろ
う。 あるとき、イエスがエリコの町を通られるというので、多くの群衆が見に来ていた。 ザア
カイは背が低かったので、イエスをひと目見ようと、群集の前に出ようとしたが、当然、誰も彼
に親切にするものはいなかった。  
 
しかし、人から見れば、「悪い」「卑怯」「罪人」と嫌われていたザアカイに、主イエスの方から声
をかけてくださった。 「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と。 そして、ザア
カイの家に入られ食事を共にされた。 外では、人々が「あの方は罪人のところに行って客とな
られた。」とつぶやき、ザアカイと共に主を見下げていたが、主の臨在に触れたザアカイは、告
白と悔い改めをした。 主イエスは、「きょう、救いがこの家に来ました。」と言われ、ザアカイも
家族も救いを受けた。 
 
パリサイ人たちや律法学者たちとザアカイ。 両者は、正反対である。 一方は、人々から「先
生」と呼ばれ、尊敬され、一方は、人々から嫌われていた。 表面上、一方は、旧約聖書の律
法ではないが、自分たちが作った規則を厳格に守ったり、断食したり、長い祈りをしたりしてい
た。 一方は、不法な取立てをして、誰が見ても「悪いやつ」だった。 しかし、主イエスの彼ら
に対する対応は正反対だった。 この世の常識と神の常識、人の見方と神の見方、人の基準
と神の基準は、全く違うことがよくわかる。 
 
人はどうしても外側に出る行動、言葉で、人を判断しがちである。 確かに、内側のことは、い
ずれ外側に現われてくるものだ。 人は、自分の内面、心の奥底のこと、本心、本音を隠し尽く
すことはできない。 たとえば、神に忌み嫌われる本心、本音を隠し、悲劇の主人公を演じて、
自分に対する人の見方を善人、もしくは、かわいそうな人と同情を集めて自己満足したり、何
らかの利益を得ようとしても、それらは「偽善」だったと本心、本性が暴露される時が来る。 そ
のように聖書は書いている。「おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠され
ているもので、知られずに済むものはありません。(ルカ12:2)
 
クリスチャンであろうがなかろうが、人の心の奥底にある思い、人の内面すなわち、本心、本
音が神に忌み嫌われるものかどうかは、その人の行く末(天国か地獄)を決めるくらい重要で
あると言っても過言ではないかもしれない。 「サタンさえ光の天使に擬装(偽装)する(Uコリン
ト11:14)」と書かれている。 「偽善」、「偽装(擬装)」はサタンの常套手段である。 だから主
は忌み嫌われる。 
 
人は外側を見る。 神は心の中、心の奥を見られる。 真実を望まれている。 うそ偽りのない
願い、思い、行ないを見ておられる。 我々は真実な心で、神の御前に出て真実な願いを述べ
ていき、真実な行ない、主のみこころを行なっていきたいものである。 我々は日々絶えず、主
イエス・キリストから目を離さず、主の御前に正直になり、真にへりくだって祈り、キリストとの交
わりをより深くしていきたいものである。 そしてますますイエス・キリストを知って主を愛する者
になりたいものである。
 
★新約聖書 ペテロの手紙 第一 2:1、2
   ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、
   すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕
   い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
 
★旧約聖書 イザヤ書 66:2
   これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。・・主の御
 告げ。・・わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。
 
★旧約聖書 箴言 15:11
   よみと滅びの淵とは主の前にある。人の子らの心はなおさらのこと。





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