めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年6月17日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<ペテロとイスカリオテのユダ:「裏切る」ことについて>



★新約聖書 ヘブル人への手紙 12:25
   語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた
   方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる
   方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 12:48
   わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。
   わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 3:20,21
   悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに
   来ない。 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされた
   ことが明らかにされるためである。
 
主イエス・キリストの12弟子の中の筆頭ペテロとイスカリオテのユダ。  ある意味、この二人
は両極端である。 「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハ
デスの門もそれには打ち勝てません。(マタイ16:18)」と主イエスから言われたペテロ。 一
方、イスカリオテのユダは、「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれ
なかったほうがよかったのです。(マタイ26:24)」、「滅びの子(ヨハネ福17:12)」と言われた。 
 
ペテロは、血気盛ん、臆病、それでいて自信過剰。 熱心で生一本な性質。 言い方を替えれ
ば、いい意味での単純。 田舎ガリラヤ地方出身者。 一介の漁師、「無学な普通の人(使徒
4:13)。 一方、イスカリオテのユダは、かなり優秀で、人からの信頼も得ていた人物だったよう
だ。 ユダヤ地方にあるカリオテ、都会出身者。 主イエスの群れの会計を任されていた。 
 
二人とも、イエスが十字架にかかられることに関して、イエスを「裏切った」。 ペテロの場合。 
彼はイエスに何かにつけてそばにおかれた。 いわば主イエスによって、いろいろな体験をし
た。 もちろんほかの弟子たちも いろいろ体験したが、ペテロは、変貌山で栄光の姿のイエス
と、旧約聖書を代表するモーセとエリヤを見た。(マタイ17章) ガリラヤ湖の荒れる波の上を
歩いた。(マタイ14章) しかし、失敗も多く、イエスからしかられることも多々あった。 ペテロ
の失敗エピソードは実に多い。 極めつけは、主と共に死ぬこともいとわない、と豪語したその
舌の根の乾かぬうちに「そんな人は知らない」と3度言ったことである。
 
一方、イスカリオテのユダの場合。 彼は最初から「裏切り者」であったわけではない。 性質
的にその要素はあったとしても、人はみな、アダムとエバ以来の罪人である。 12弟子として主
イエスに選ばれたのは、最初から「主が望まれる者」であったからではない。 主のそばで、主
ご自身が訓練され、主の時に、彼らに聖霊が下られるのにふさわしい者として整えるために12
弟子を選ばれた。 すべては神のご計画を遂行するためであった。 12弟子を整えるために、
主が直接、訓練され、教えられ、様々な経験をさせられた。 イスカリオテのユダもその中の一
人であった。
 
しかし、ユダの場合、主の教えを素直に受けることをしないばかりか、自分の考え、思いと違う
ことに対して、改めることもせず、反感と不満が内に蓄積していったようである。 主の埋葬の
用意のためのナルドの香油をイエスに注いだ女を、イエスは「よい事をした」と言われた。 し
かし、ユダは納得がいっていないようであった。 ユダが女をとがめた理由を、ヨハネは「彼は
盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたから
である(ヨハネ福12:6)」と言っている。 
 
ユダは、自分の考えや、思い、感情、批判など本音を巧妙に心の奥底に隠していたようであ
る。 イエスに指摘されないために自分の本音を語ることを最小限に抑えていたのかもしれな
い。 本音を神の前にさらけ出さず、「隠すこと」はサタンが喜ぶことである。 「暗闇」「夜」は、
サタンの支配の下にある。(使徒26:18、エペソ6:12) ユダは、「夜」、イエスの下を離れて出て
行った。(ヨハネ福13:30) 暗やみのものは明るみに引き出されることが重要である。
心の闇をそのままにしておくべきではない。
 
二人とも多かれ少なかれ、当時のユダヤ人のメシア(キリスト=救い主)待望と同じく、政治的
な意味や革命者としてのメシアを期待していたと思われる。 しかし、イエスの言われること
は、彼らユダヤ人の期待とは違っていた。 ペテロは、失敗しながら、そのような考え、思いが
変えられていき、主と主のことばに従おうとしていった。 しかし、ユダは、主と主のことばに従
うというより、彼の考えを固持していった。 
 
「裏切る」という意味は、国語辞書には「@味方にそむいて敵側につく」と「A人の信頼にそむ
く行為をする。期待や予想に反する」とある。 ヨハネ福6:64の「裏切る」と訳した原語の本来
の意味は、「引き渡す」であるという。 ユダは、主イエスを敵のサタン側である律法学者やパ
リサイ人たちに、銀貨30枚で売るという、裏切りをした。 主イエスにそむいてサタンの側につ
いたということである。 ちなみに銀貨30枚とは、当時の奴隷一人の相場であった。 
 
同じ「裏切る」でもペテロとイスカリオテのユダの違いは、主イエスを敵であるサタンに売ったか
どうか、主イエスの側についたかサタンの側についたかどうかである。 ペテロは、弱さのゆ
え、3度「そんな人は知らない」と言い、自分を守るために裏切った。 しかし、ペテロは、主を
「裏切った」とき、自分の愚かさを嫌というほど知って、激しく泣いた。 そんなペテロを、主は
愛し赦してくださった。 ペテロは、主によって立ち直ることができ、他の弟子たちに大きな良
き影響を与え、信仰を全うし、主のために逆さ十字架で殉教して天の御国に凱旋した。  
 
一方、ユダは滅んだ。(ヨハネ福17:12) ユダは、主を敵に売ったことを後悔し、自殺までした
が、それは悔い改めたとは言えない。 悔い改めたのなら、方向転換してイエスのところへ悔
い改めに行ったであろう。 主は立ち返って来る者を必ず、赦してくださる方である。 しかし、
ユダは「わたしは真理であると言われた主イエスから逃げた。 ユダは主イエスと共にいたと
き、主のことばを受け入れていなかった。 その積み重ねによって、主に立ち返ることができな
いくらい、心がかたくなになっていたためなのか?、それとも、そのようなかたくなな心をサタン
が離さなかったためなのか? いずれにしても、主イエスに悔い改めることができなかった。 
自我が砕かれる、肉が切り取られる、ということは重要なことである。
 
主と主のことばを拒むということは、心を主なる神の敵であるサタン、悪霊に売り渡すことにな
る。 「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(ヘブル人
4:7)」と書かれている。 主と主のことばを、拒むことのないようにすべきである。 結局、我々
がすべきことは、主の側にとどまる、すなわち主の支配の下、主の影響の下に自分を置き続
けることである。 決して、主イエス・キリストにそむいて敵側、すなわち人の側、その背後にあ
るサタンの側につくことのないようにしたいものである。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 1:1
   初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
 
★新約聖書 ヘブル人への手紙 4:13
   造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸で
   あり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。
 
 




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