めんどり通信/2012年5月13日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <主イエス・キリストを信じた者の人生:十字架を悟るまで<天路歴程>> |
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★新約聖書 マタイによる福音書 5:3
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 ★新約聖書 マタイによる福音書 11:28-30 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなた がたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたし のくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたし のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 ●ジョン・バニヤンという17世紀、イギリスのクリスチャンが書いた「天路歴程」という有名な本 がある。 原題は「この世から来るべき世への巡礼者の旅路」という。 基督者(キリスト者、ク リスチャン)が主人公である。 簡単なあらすじはこうである。 クリスチャンが「滅亡の市」を出 立し、「落胆の沼」に落ち込んだり、「頑固者」「軽率者」「世渡り上手者」などに惑わされながら も伝道者の導きで、門にたどり着いた。 シオンの山(天の御国)へ行こうとするなら、その門 に入らなければ行けない。 その門を入るのにも悪魔の火矢が飛んできて、妨げられたが、門 番に助けられ中に入ることができた。 「途中災いがあるが、狭いまっすぐな道を進め」というこ となど「大切者」が真理を教えてくれた。 しばらくすると小高い丘に十字架が見えた。 その十字架を見たとき、自分が背負っていた重
荷が背中から、するするとすべり落ちるのを感じた。 彼はイエス・キリストは自分の罪の身代 わりとなって十字架にかけられたと悟り、心から泣いた。 そのとき3人の光り輝く人が来て、 「平安があなたにあるように」と言った。 その中の一人は「あなたの罪はゆるされた」と言い、 もう一人は汚れた服を脱がせて、着換えの衣を着せた。 さらに、もう一人は彼の額にしるしを つけ、封印のある巻物を与えて、走りながらそれを読み、天の門でそれを渡すよう命じた。 彼 は小躍りして喜び、再び出発した。 その後もいろいろな誘惑や攻撃など様々な苦難、試練に 遭ったが、それらを乗り越えて無事、天の都(御国)に到着したという話しである。 さて、人は、この地上で生きていく上で多くの苦労や疲れを避けられない。 様々な重荷を担う こともある。 病気、人間関係のいざこざ、経済的なこと、子どものこと、妻のこと、夫のこ と、・・・など。 いろいろ願いや計画を持っている人も多いと思われるが、それらがうまくいかな いと不幸と感じ、そのようなことも苦しみとなり、重荷となる。 それらの重荷は自分で何とか処理できる人もいる。 ある人は、持ち前の意志の強さで完全で なくても生活に支障がないくらいに跳ね除けたり、また別の人は、愚痴を言ったり、人を非難、 もしくは批評して、うっぷんをはらしたり、また重荷で苦しんでいる人は、自分だけではない、 もっと、きつい苦しみ、悩みを持っている人もいるんだから、自分は、まだましだと思わなけれ ば、などと納得したり、あきらめたり、と処理の仕方も様々である。 いずれにしても、そのよう な重荷でも自分の力で完全に取り除くことは難しい。 また、人はそのような重荷には気づいて も「罪」という重荷、すなわち「自己の罪」ということには、なかなか焦点が定まらないものであ る。 この主人公が住んでいた町のほかの住民たちも、「罪の重荷」には気づかなかった。 「罪」という重荷を背負っていながら、その「罪」の荷物が重く感じなかったのである。 この主人公も、この地上を歩んでいく上で、背中に大きな荷を負っていた。 しかし、あるとき、 彼は一冊の書物を読むうちに涙を流して身を震わせた。 「どうしたらよかろう」と悲しげな声で 叫んだ。この時から、彼の背中の荷は、それまで感じていた重荷ではなく、「罪の重荷」となっ た。 また、自分たちがいるこの都は恐ろしい破滅が来て、救われる逃げ道が見つからない限 り、共に滅んでしまう、つまり死んだ後でさばきにいたる運命を受けていることがわかり、その ことも重荷となった。 それから彼は「救われるためにはどうしたらよいであろう」と悩み苦しんだ。 自分は罪人で、 愚かな者であり、自分の力ではどうすることもできないことを知ったからである。 そして、「滅 亡の市」を出立して、彼は進んで行ったのである。 このクリスチャンが行くべき道は両側が垣 で囲まれ、その垣は「救いの垣」と呼ばれていた。 それで重荷を負うたクリスチャンはこの道 を駆けて行ったが、背中の重荷のため困難がないわけではなかったという。 そして十字架の 立っている所に着き、十字架を見たために、重荷が肩からほどけ、心が軽く、楽になった。 このように、自分が本当に愚かな者、力のない者であることを知り、認める者は幸いである。 そのような人が主が言われる「心の貧しい者」である。 そして「心の貧しい者は幸い」であり、 「天の御国はその人のもの」と主は言われた。 この主人公は、一冊の書物(おそらく聖書だと 思われる)から、「罪の重荷」と「来るべき裁き(死と死後の裁き)」を知った。 一人一人、救わ れ方、歩み方はみな違うから、「罪の重荷」を知ったり、自分の愚かさ、足りなさを自覚したり、 「自分という者は・・」と自分を知って苦しんだりするきっかけも一人一人、様々であるだろう。 しかし、どのようなきっかけにしても、これらのことを知り、認めることは重要である。 そのよう な人が主イエスの十字架を悟り、心から感謝することができるからである。 この「天路歴程」の主人公が「クリスチャン」となっているが、クリスチャンでも「十字架」が自分 のものになっていない、真に悟っていない者があるということだ。 過去の自分を振り返ったと き、つくづくそう思う。 著者は25歳のとき、主を信じてクリスチャンと呼ばれるようになったが、 主の十字架は自分のためだったと真に悟るまで約5年ほどかかった。 その間、頭では創造主 と主イエス・キリストのことは知ったが、「罪の重荷」はまだ背中にあった。 その証拠に、主が 与えると言われた「平安」を一瞬は体験したが、続かなかった。 「救い」を真底から体験してい なかった。 この主人公と同様、もがくところがあった。 ところが、あるとき、主の十字架を悟った。 当時、職を持っていたので、夜、教会へ祈りに 行った。 そのとき、主の御前で、はっきりと古い自分、偶像礼拝など神に忌み嫌われるような ことを続けてきた自分が終わる感覚があった。 「神に忌み嫌われる汚れた着物」が脱がさ れ、「代わりの着物」を主から与えられたように感じたものだ。 その時から、キリストにつな がったように思われる。 その後、今日まで、波瀾万丈の道のりだったが、それらは明らかに 主からの訓練試練であり、それらを通して、自我が砕かれ、肉が切り取られて確実に霊的な見 方などが養われてきたと思う。 そして、今日に至っている。 まだまだ深みがあるので、今後も主と共に歩ませていただきながら、ますます清めていただ き、ゴールを目指して歩んでいきたいと日々、祈っている。 「天路歴程」からもわかるように、 十字架がゴールではない。 いわば、十字架が、神が人に与えようとしておられる神の祝福、 天からの恵みを受けるためのスタート地点かもしれない。 それら上からのものを正しく受ける ために苦難、試練、誘惑、悩みなどは神からの訓練となる。 「天路歴程」は、目次を見ると、十字架によって肩の重荷を降ろされるという場面は、19目次の 7番目である。 しかし、この7番目の十字架が、自分にとって実際、実感となっていなければ、 その後の道が、まっすぐに進めない可能性が強い。 天の御国(ゴール)への道は確かに聖書 のことば(マタイ7:13-15)やこの話しのとおり狭くて厳しいものであるが、目指す者には、キリス トが共に歩んで下さる。 我々の心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためである。 我々 は、この主イエス・キリストを真に受け入れて、キリストの十字架を心底から体験し、重荷から 解放され、絶えず祈り求めてまっすぐにゴールに向かって歩みを進めていきたいものである。 ★新約聖書 ヘブルへの手紙 12:2,3 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自 分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座 の右に着座されました。 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のこと を考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。 |
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