めんどり通信/2012年5月6日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <つまずかないように 主に鍛えられる人は幸いな者> |
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★新約聖書 ルカによる福音書
7:23
だれでも、わたし(主イエス・キリスト)につまずかない者は幸いです。 ★新約聖書(口語訳) ペテロの手紙 第一 4:1 このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の 武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。 ★新約聖書 ローマ人への手紙 8:17 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために 苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。 ●主イエス・キリストの十字架は自分の罪のためであったと認め、3日目の復活を信じ、義とさ れた者は、神の子とされた。 神の子の身分は、肩書きだけではなく実際である。 神の子で あるから、聖霊の導きを求め、信じ、従おうとする。 神の子であるから、キリストが持ってお られるものを共同に相続することができる。 そしてキリストはすべてを持っておられる。 ただ、神の子とされてすんなり、ルンルンで相続するのではない。 神の子であるならば、父な る神および主イエス・キリストが喜ばれることは何なのか、みこころは何なのかを知るために、 真剣に祈り求めるだろう。 また、本当の神の子であるならば、キリストと栄光を共にするため に苦難をも共にすることになる。 神の訓練(懲らしめ)、試練、むち打ちを受けることになる。 (ヘブル12章) その試練は、ペテロの手紙 第一の4:12には「燃えさかる火の試練」と書かれ ている。 神は、ご自身の子を愛されるから、「私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあ ずからせようとして」鍛えられる。(ヘブル12:10) さて、かつての多くの主に従ってきた弟子たちが、「燃えさかる火の試練」を受けてきた。 12 弟子たちも多くの試練を受け殉教した。 12弟子より以前、バプテスマのヨハネも殉教した。 バプテスマのヨハネの場合。 彼は、キリストの先駆者として、イスラエルに悔い改めを叫んで いた人物。 また彼は、「私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方・・・。」と「来る べき方」の到来を語っていた。 そして、律法を遵守し、ヘロデ王の罪を指摘してヘロデ王から 怒りを買って投獄された。 ヨハネには多くの弟子がいたが、彼らは、キリストのみわざを獄中 のヨハネに伝えた。 するとヨハネは、弟子に「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それと も、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねさせた。 そのバプテスマのヨハネは、キリストが公に立たれた時、洗礼をキリストに授けた。 また「見 よ、世の罪を取り除く神の小羊。・・・この方が神の子であると証言しているのです。(ヨハネ福 1:26-1:34)」と荒野で人々に叫んで知らせた。 彼は、イエスがメシヤ、キリスト、救い主であ ることを十分に知っていたはずである。 にも関わらず、冷たい牢獄という閉鎖された所で一 人、孤独にさいなまれていたので、「イエス様はメシヤだと思っていたが、自分は間違っていた のだろうか?」という迷いの思いが出てきたのかもしれない。 当時、ローマに支配されていたイスラエルは、メシヤが来られたら、敵を破って、イスラエルの 王として君臨され、イスラエルが世界を支配することを待望していた。 バプテスマのヨハネも そのような期待をもっていたかどうかは定かではないが、いずれにしても、メシヤなら何故、こ こから自分を救ってくれないのだろうか、と疑問を感じたと思われる。 イエスへの信仰と確信 が揺らいでいる。 人は、「孤独」には弱い者である。 一人でいる方が好き、と言ってみても、一般的には、「孤 独」は人の心をむしばみ、歪めさせる危険性がある。 また、大きく強い「苦難」が怒涛のごと く、押し寄せれば、人は、ひとたまりもなく倒れてしまいがちである。 獄中では、荒野で毅然 と信仰に立っていた先駆者ヨハネの面影は見られない。 「孤独」や「苦しみ」が彼を弱くさせた のであろうか? しかし、「たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその 手を助けささえられるからである。」と詩篇37:24には書かれている。 ヨハネの問いに対するイエスの答えは、「そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあ けられる。・・・(イザヤ書35:5,6)」「神である主の霊が、わたしの上にある。・・・捕われ人には 解放を、囚人には釈放を告げ(イザヤ書61:51)」と、旧約聖書のイザヤ書に書かれていること であった。(マタイ11:4-6) これらの「ことば」から、イエスご自身が、待ち望むべきメシア(=キ リスト)であることを揺らいでいるヨハネに示された。 イエスのことばには、非難の言葉が一言 もない。 そして、「わたしにつまずかない者は幸いです」とのイエスのことばは、ヨハネの心の 奥にまで染み入ったと思われる。 イエスの答えは、ヨハネの信仰を引き上げた。 推測では あるが、ヨハネは殉教するとき、もはや何の疑問も迷いもなかったのではないだろうか。 確かに、主が「神の子」と認めておられるなら、その人に応じて神からの「訓練(懲らしめ)」、 「試練」があり、神がゆるされる範囲の「苦しみ」「苦難」はある。 しかし、本当の神の子である なら、そのようなところは通らなければならない。 パウロは、「今の時のいろいろの苦しみは、 将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないもの」だと言っている。 (ローマ8:18) 「キリストの苦しみ」にあずかるならば、キリストを、実際的に深く知ることができ
る。 我々は、将来の栄光について、聖書に記されている「神のことば」でもって想像からしか
知ることはできないが、主を知れば知るほど、「将来の栄光」「天の御国」は身近なものとなっ てくるのを実感することができる。 地上で生きている限り、どのような人にも様々な苦しみが伴う。 苦しみ、苦難、悩みなど全くな い、という人はほとんどいないであろう。 しかし、神の子であるならば、どのような苦難、苦し
み、悩みのときにも、人がその子を抱くようにキリストが苦しむ者と共にに歩んでくださる。 「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみ によって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。(イザヤ書63:9)」と 書かれている。 心の奥、霊にまで染み入る「神のことば」である。 我々は、自分が都合がいいときにだけ、主に助けを求めるのではなく、絶えず、主を避け所と し、主に信頼していきたいものである。 そして、主のみこころを求め続けていき、「つまずかな い者」になりたいものである。 「わたしにつまずかない者は幸いです」の主のことばを、深く深 く刻み込んでおきたいものである。 ★旧約聖書 イザヤ書 63:9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわ れみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。 ★新約聖書 ペテロの手紙 第一 1:6,7 ・・・いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信 仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キ リストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。 ★新約聖書 ユダ書 1:24,25 あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもっ て栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神 に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今 も、また世々限りなくありますように。アーメン。 |
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