めんどり通信/2012年4月29日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <主と交わりをしている者が主に仕える> |
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★新約聖書 第一ヨハネの手紙 1:3
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交 わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストと の交わりです。 ★旧約聖書 申命記 13:4 あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に 聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。 ●旧約聖書 ヨシュア記24章に、ヨシュアの生涯の終わりに、イスラエルの民に説教し預言の ことばを伝えている場面が記されている。 ヨシュアは「あなたがたは、あなたがた自身のため に、心して、あなたがたの神ヤーウェを愛するように注意しなければならない。(岩波訳ヨシュ ア23:11)」こと、「モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく断固として守り行なう」こ と、「主にすがらなければならない」ことを伝えた。 また、カナンの異邦の民と交わってはいけ
ない、彼らの神々の名を口にしてはいけない、誓ってはならない、仕えてはならない、拝んでは ならないことをも警告した。(ヨシュア23:7) そして、ヨシュアは「・・・あなたがたが仕えようと思 うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。(ヨシュア24:15)」と問い と宣言をした。 そのようなヨシュアのことばに対してイスラエルの民は「私たちは主に仕えます。(ヨシュア2 4:18,21,24)」と3回、答えた。 それでヨシュアは、その日、民と契約を結び、シェケムで、おき
てと定めを定めた。 ヨシュアは今、生きているイスラエルの民だけに警告したわけではなく、 民の子孫にも、直接ヨシュアのことばを聞いた者たちが確かに伝え、子孫にそれらの契約を守 らせるようにしなければならないことをも含んでいた。 子孫に正しく伝えていくということは、ま ず自分たちが、正しく主に仕えていかなければできないことである。 ところが、民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って主がイスラエル に行なわれたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、主に仕えていたが、指導 者たちがいなくなるとイスラエルの民は他の神々を慕っていき、ヨシュアの警告のことばを無視 した。 それで、約束の地は失われ、多くの者たちが滅ぼされた。 「主に仕えます。」と言い切っても、全うすることは難しいものである。 旧約聖書を見ると、神に 選ばれたはずのイスラエルの民は、何度も何度も、主なる神に背を向け、裏切ってきた。 そ の度、神は立ち返らせようと敵を送ったり・・・、苦難を通し、悔い改めて神に立ち返れるように 仕向けてくださった。 しかし、イスラエルの民は、神に背くことを繰り返していた。 キリストの十字架以前の旧約時代、人々はおもに預言者を通して神のことばを聞いた。 いつ の時代にも、神のことばを聞いたとき、どう聞くか、どう受け取るかは、ある意味その人に任さ れている。 だから主と人との個人的な関係がしっかりしていることが大切である。 「主に仕え る」ということも同様である。 主と自分との個人的な関係が正しくしっかりしていることが重要 である。 一対一の関係がしっかりできた上で、兄弟姉妹など他との関係が正しく持てるもので あろう。 ヨシュアが「十分に気をつけて」とか「注意」してなどと語っているのは、自分自身という者をよく 知っていなければ、主にすがり続けることができない。 また自分自身の心の底から出て来る 思い、考えに十分、注意を払わなければ、本当の意味で主を愛することが出来ない。 だか ら、自分自身に注意せよ、気をつけよ、ということであろう。 そして、自分自身の思い、信仰を 吟味し、主に思いを調べていただくようにと促していると思われる。 アダムとエバ以来、好む 好まざるに関わらず人が受け継いできた人の本質、生まれつきの肉の性質は、神を喜ばせる ものを持ちえず、むしろ神に反逆するものを持っているからである。(ローマ7:18、8:6,7、ガラ テヤ5:17) イスラエルの民は、それまで何度も主なる神に背を向け、主を裏切ってきたが、ヨシュアに問 われた時、「私たちは主に仕えます。」と3度の信仰告白をした。 しかし、その後、また堕落 してしまった。 同じようなことがペテロに関してもあった。 イエスの筆頭弟子ペテロは、「たと いあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」と 言っていたが、土壇場で3度、イエスを知らないと主を裏切った。 しかし、主はペテロに「あな たはわたしを愛しますか。(ヨハネ福21章)」と回復の機会を与えてくださった。 それも3度否 んだペテロに、3度、問うてくださった。 ペテロは「はい。主よ。私があなたを愛することは、あ なたがご存じです。」と3度、信仰告白をした。 その後のペテロは、堕落するどころか、ますま す主によりすがって、主に仕えていった。 主も大いにペテロを用いてくださった。 イスラエルの民とペテロの違いは、主と交わっているかどうか、すなわち主を体験的に知って いるかどうかであろう。 また、ペテロは、主からの訓練試練(懲らしめ)を、ないがしろにしな かったことであろう。(箴言3:11、ヘブル12:5) 指導者がいるから、主に従う、というのでは、 その人はキリストを体験していない。 だから指導者がいなくなれば、無意識に自分の好みの ものへと心がなびいていく可能性が大いにある。 敵である悪魔は、人が神から離れようとす る隙の一点でもないかどうかを捜し求めながら、歩き回っている。 そして世に満ちている惑わ し、逸らし、誘惑などを巧妙に持ってくるのだから、隙があれば、だまされるのは必至であろう。 もし、だまされたとしても、真に主と交わりをもっている者は、主が教えてくださり、そこから救い 出してはくださるが、同じ事を繰り返すことは主のみこころではない。 さて、指導者がいるときには、神が立てた権威にへりくだったらよい。 もし指導者がいなくなっ ても、我々には真の指導者であられる主イエス・キリストがおられる。 だから我々はその主に 目を向け、その方の語られることばに耳を傾けるべきである。 このことは、指導者がいてもい なくても我々がすべきことである。 すなわち、一対一の主との交わりが重要なのである。 このように、「主に仕える」ためには、主と交わりをもっていなければならない。 確かに、救わ れた者は、主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいた。(Tコリント1:9) しかし、 主イエス・キリストを信じていると言っても、その主との交わりが実際の体験でなければ、「主と 交わりをしている」とは言えない。 「主に仕える」ことは「主と交わる」ことでもある。 主と交 わって、主のみこころを知り、主の望まれる主のための働きができる。 主と交わって、聖霊の 流れに乗ることができる。 主からの訓練試練を受け、砕かれて、主を体験する、キリストを経験するならば、段々と逸らし や惑わしを見破ることが出来るようになる。 そして、主を頭(知識)で知るのではなく、主が実 際の方、生きておられることを体験的に知るようになる。 主の導きで、様々な体験を重ねな がら、少しずつ主ご自身を深く知ることが出来るようになるものである。 とにかく、真に「主に仕える」ことができるために、日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さ ず、主の御前にへりくだって、真の「主の交わり」をしていきたいものである。 絶えず祈り、主 が望まれる祈りができるようになって、ますます深く、主と交わり、主を知っていきたいものであ る。 そして、主が望まれるように仕えていきたいものである。 ★旧約聖書 申命記 10:12,13 イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、た だ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くし てあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の 命令と主のおきてとを守ることである。 |
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