めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年4月22日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<キリストのうちにあって新しく造られ、ますます新しくされ神を知る>




★新約聖書 第二コリント人への手紙 5:17
   だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去っ
   て、見よ、すべてが新しくなりました。

★新約聖書 コロサイへの手紙 3:9,10
   ・・・あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。
   新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

★旧約聖書 箴言 4:20-22
   わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。 それをあなたの目から離
   さず、あなたの心のうちに保て。 見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健
   やかにする。

マルコ10章に盲人バルテマイが癒されたことが書かれている。 エリコの町に来られたイエ
スが弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲
人のこじきが、道ばたにすわっていた。 彼はメシヤ(救い主)が来られるとき、盲人の目は開
かれるという預言を信じていた。(ルカ4:18) それで目が見えないバルテマイは、ナザレのイ
エスだと聞くと、この時とばかりに必死に叫んだ。 大ぜいの者がバルテマイを制止しようとし
たが、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」叫び求めた。 その心からの叫びを
イエスは聞いてくださった。 イエスに呼ばれたバルテマイは、上着を脱ぎ捨てて、すぐ立ち上
がって、イエスのところに来た。  そしてイエスに目をいやしていただいた。 彼は、すぐにイエ
スについて行った。 古い自分は過ぎ去り、新しい歩みが始まったのである

バルテマイは、ただ単に癒されて普通の生活ができる、良かったではなく、何のために癒され
たいのかという目的がはっきりしていた。 彼の心は、目が癒されたなら、新しい歩みをするこ
と、すなわち、主イエスに従って行くことを決めていた。 主に仕え、主に従っていくために妨げ
ていたのが、目が見えないこと(病)であった。 何のために癒されるのか。 一番の目的は主
に仕え、従っていくためであり、主を礼拝するためである。 神はそれを望んでおられる。

主に従っていくために妨げる大本は「罪」であるが、「病」もその中の一つである。 これらは、
元はといえばアダムとエバが罪を犯したことによる。 「罪」の結果、死が入ってきた。(ローマ
6:23)
 死に向かわせるものの中の一つが「病」である。 「病」は、個人の罪からくるもの、生
理的なことからくるもの、不節制(暴飲暴食)など欲からくるもの・・・と様々ある。 

ただパウロのように、罪や不節制など本人の責任ではない場合の「病」もある。 「神のわざが
この人に現われるため(ヨハネ福9:3)」
もあり、主の務めが大きいため「高ぶることのない(U
コリント12:7)」
ために、あえて神が与えている「病」もある。 主のために大きな働きを成したパ
ウロは、祈っても「わたしの恵みは、あなたに十分である。(Uコリント12:9)」と主に言われ、癒
されなかった「病」があった。 パウロが「とげ」あるいは「サタンの使い」と言うほど、苦痛を
伴ったようだ。 しかし、パウロにとってこの「病」は、「主に仕え、従っていく」のに妨げとなっ
ていない。 むしろ誰よりも主の御心を深く知って、主に大いに用いられた。 だから、「病」に
よっては必ずしも罪の結果とは言えない。 

パウロだけでなく、「塩狩峠」「氷点」などを書かれた作家の三浦綾子さんも一生涯、いろいろな
病があった。 しかし、それらの「病」は、「主に仕える」ことに何の妨げにもなっていないばかり
か、「私は神から特別に愛されている」と、より信仰に堅く立ち、より神を愛するための益にさえ
なっている。 推測ではあるが、その他、名も知られていない多くのクリスチャンの中にも、パ
ウロや三浦綾子さんのような特異なケースの人がおられると思われる。 肉体的病を持ち続け
ることを通して、神が栄光を現わすという場合も有り得る。 

さて、「病気、病」とは、辞書大辞林によると「肉体の生理的なはたらき、あるいは精神のはた
らきに異常が起こり、不快や苦痛・悩みを感じ、通常の生活を営みにくくなる状態」をいうが、
神の見方による「病」の定義は、「主に仕え、従うことを妨げるもの」と言える。 だから、一般
的に認められていない「病、病気」でも、「主に仕え、従うことを妨げるもの」であるなら、それは
神の見方によれば「病、病気」である。 

「キリストのうちにあるなら、・・・古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなった」ということばは、
真実であるが、そのみことばが、明確にその人の実際、実感となるには、その人にとっての
「古い」、すなわち「主に仕え、従う」のに妨げるものが取り除かれる必要がある。 「キリストに
あって新しく造られる
」。 それは人によっては身体の病がいやされることであり、心の病がい
やされることであり、自我が砕かれることであり、肉が切り取られることである。 すなわち古き
が終わること。 古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨てることである。 

それは、罪を犯す前のアダムの姿、神に造られたときの本来の人間の姿を回復するということ
である。 罪を犯す前のアダムとエバは、神にいつでも近づき、神との楽しい交わりを持ち、喜
んで神のみことばに従い、神に仕えた。 本来の人間を回復するということは、主イエスキリス
トに似た者に変えられるということにほかならない。 そして、新しくされた人は「ますます新しく
され
」る。 ますますキリストのご性質が現われた行ないをしていくことができるように、変えら
れていく。 そして、キリストを深く知っていくようになる。 

「主に仕えたい」「主に従っていきたい」と真底、思う者にとって、妨げとなる「病、病気」は一般
的には病名のつかない病であっても、主が「病、病気」と見なされ、いやしてくださる。 また、
自我は砕かれ、肉は切り取られる。 「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子
に、むちを加えられるからである。(ヘブル12:6)」 

いずれにしても、日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈
り、真剣に主のみこころを求めていき、主に仕えていきたいものナある。 ますますキリストとの
交わりを深くしっかりとしていき、新しい聖霊の流れに乗って、主の喜ばれる者になりたいもの
である。

★旧約聖書 詩篇 103:3-5
   主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴か
   ら贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たさ
   れる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

★旧約聖書 イザヤ書 53:3-5
   彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけ
   るほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 まことに、彼は私たちの病を負い、私た
   ちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられた
   のだと。 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために
   砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはい
   やされた。







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