めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年2月26日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<放蕩息子について>




★旧約聖書 ヨナ書 2:7
   私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなた
   に、あなたの聖なる宮に届きました。
★新約聖書 ヘブルへの手紙 3:12
   兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者
   がないように気をつけなさい。
★旧約聖書(口語訳) 哀歌3:40
   われわれは、自分の行いを調べ、かつ省みて、主に帰ろう。

ルカによる福音書15章
に「放蕩息子のたとえ」が書かれている。 このたとえを様々な観点
から見せられて、いろいろなことを教えられる。 一つのたとえからでも、主は我々のその時の
状態、状況に応じて言わんとされることを示してくださる。 ちなみに「放蕩」の意味は国語辞書
によると「自分の思うままに振る舞うこと。やるべきことをやらず、飲酒や遊びにうつつをぬか
すこと。」である。
 
簡単なあらすじはこうである。 ある人に二人の息子がいた。 弟は父に生前分与をもらい、そ
れを全部換金して旅に出た。 そして、遊蕩三昧の生活をして、無一文になってしまった。 そ
の後で、飢饉が襲い、弟はけがれた動物とされていた豚の世話をし、その餌で飢えをしのぎた
いと思った時、我に返って、自分自身の愚かさに気付いた。 そして悔い改めの心をもって「雇
い人のひとりにしてもらおう。」と家路に着いた。 息子の姿を遠めに見た父は走り寄って息子
を抱きしめ、わびを言う息子に最上の着物を着せ、指輪をはめ、履物を履かせ祝宴を行った。 
 
畑から帰ってきた兄は、弟が帰ってきた喜びの祝宴の音が聞こえたとき、釈然としない思いに
かられた。 自分は長年、忠実に働き続けてきたが、こんな祝宴を開いてもらったことは一度
もないと兄は怒って家に入らなかった。 すると父は出て来て、なだめたという話しである。

ここで父親は「神」を、兄は「神の民、クリスチャン」、弟は「異邦人(未信者)」を示すたとえと
捉えることが多い。 一般的にこのたとえで教えられることは、神のもとを離れ、好き勝手に生
きてきた人間が、神に背く人生がどんなに愚かであるかを気づき、罪を悔いて神のもとに帰る
ときに救いと祝福があること、父なる神の愛は二人の息子それぞれに注がれているということ
などである。 確かにその通りである。
 
人は、もともとは神のもの、神の支配下にいる者であった。(創世記1:27)  しかし、罪(原罪)
が、アダムとエバに入ってきて以来、人は神と関係のない者になってしまった。(ローマ3:23) 
罪とは、ギリシャ語で「ハマルティア」、語源は「的外れ」で、神から離れて(外れて)生きること
である。 だから本来、すべての人はアダムとエバ以来、神から離れた放蕩息子であった。 し
かし、キリストが我々の罪の身代わりとなって十字架に掛けられ、3日目によみがえられたこと
を信じる者は、罪が赦され、救われる。 それは、父の元で一緒に住むようになることである。 
父のそばにいることである。 神の恵みと祝福を受け継ぐ息子となることである。

ただ、「放蕩息子」というとき、弟はもちろんのこと、この兄も「放蕩息子」と言えるかもしれな
い。 兄(クリスチャン)は、すでに父の元にいたが、父になだめられても「自分は納得できな
い」と父に怒った。 そして「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけに
そむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありませ
ん。」
という言葉から、クリスチャンとして正しく生きてきたようではあるが、クリスチャンとしての
正しさが、ともすれば「クリスチャンだから、こうせねばならない」「こうあらねばならない」などと
律法的になっていたのではないだろうか。 

クリスチャンらしからぬ思いは押さえ込んで、我慢に我慢を重ね、クリスチャンとしてのプライド
が強くなっていたので、弟のことで父への不満が一気に噴き出したのかもしれない。 だから
父の愛がわからなくなってしまっていたとも言えるだろう。 そして結局、兄も父に「的(まと)」を
定めるのではなく、自分の考えるまま、思うまま・・という自分中心であったと言える。 

このたとえの最後は、父が言ったことば、「子よ、お前はいつも私と一緒にいるし、私のものは
全部お前のものだ。だが、あの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つ
かったのだ。祝宴を開いて祝うのは当たり前ではないか。(ルカ15:31,32)
」で終わっている。 
その後、兄は「お前はいつも私と一緒にいるし、私のものは全部お前のものだ。」、すなわち
「これからもずっと一緒にいる」という父のことばを聞いて父の愛がわかったのかどうか、父の
愛をへりくだって受け入れたのかどうかは記されていない。 この兄の姿を見て、我々クリス
チャンひとりひとりに、自分はどうなのかという問い掛けがなされていると思われる。 いえる
事は、心が父から離れれば、いずれ体も離れていくものであるということだ。 つまり永遠の命
を失うおそれがあるということだ。 このことを我々、クリスチャンは厳粛に受け取るべきであ
る。 「放蕩」が終わるということは、体も心も父と一緒にいることである。  
 
すべてのクリスチャンが兄ではないが、クリスチャンである者は、目を覚ましておく必要があろ
う。 まだ主を受け入れていない者は、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたく
なにしてはならない。(ヘブル 4:7)」
  それは「かたくなさと悔い改めのない心は、御怒りの
日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げている(ロー
マ 2:5)」
と言われているからである。 

それにしても、人間という者は、どん底にまで落ちぶれてしまわなければ、本当の自分自身の
愚かさに気付かないものなのだろうか。 神のもとに返れないものなのだろうか。 確かに、本
来、放蕩息子が神に立ち返ることは、なかなか難しいものである。 父が言われた「死んでい
たのに生き返」ることは難しいことだからである。 

クリスチャンになってから、自分の内にある「放蕩」に気づき、そこから救われ、絶えず、キリス
トと一緒におることができるようになることは、自分の体験からしても、ただただ、一方的な主
のあわれみがあったからだと思う。 父なる神、主イエス・キリストは、人にきちんとした「悔い
改めのことば」を待っているのではない。 ただ、ただ人が、父の元に返ってきて、絶えず父と
一緒にいることを望んでおられる。 主は、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い
改めに進むことを望んでおられる(Uペテロ3:9)」
から、「死んでいたのに生き返る」ことができ
るのだ。 

放蕩息子のこの弟が、父の元に帰ってきたとき、それもまだ遠く離れていたときに、父の方か
ら走り寄って彼を抱き、口づけし、急いで最上の着物を着せ、指輪をはめ、履物を履かせ祝宴
を行った。 指輪は当時、印鑑になっており、息子としての全権の回復を意味した。 父は、た
だ帰ってくることを喜ばれる。 父なる神、主イエス・キリストとはそのようなお方である。 我々
のやるべきことは、たとえクリスチャンであっても「放蕩息子」の信仰になっていないかどうか、
自分を反省し、神の前にも人の前にも正直になることであろう。 生き方の方向、的(まと)を真
に、キリストに向けて歩むことであろう。 

★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:9
   父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどま
   りなさい。



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