めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年2月12日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<ダビデの幕屋は、主が建てようとされる教会の形>




★新約聖書 使徒行伝 15:16
   この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した
   幕屋を建て直し、それを元どおりにする。

★旧約聖書 詩篇132:13^14
   主はシオンを選び、 それをご自分の住みかとして望まれた。 「これはとこしえに、わたし
   の安息の場所、 ここにわたしは住もう。 わたしがそれを望んだから。」

★新約聖書 ヨハネによる福音書 14:23
   イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そ
   うすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人ととも
   に住みます。

●旧約のモーセの時代、神の命令により「契約の? 」が作られた。 「あかしの箱」とも呼ばれ
る。 この箱は神の臨在の象徴とされた。 箱の中には、十戒を書き記した2枚の石の板、アロ
ンの杖、マナのつぼが収められていた。 「契約の箱」を担ぐことができるのはレビ人であっ
た。(申命記10:8) モーセの幕屋は、門があり、大庭、聖所、至聖所とあって、 「契約の箱」
は、幕屋でも神殿でも、至聖所に安置された。(出エジプト40:3、T列王6:19)。 

礼拝する者はみな東に一ヶ所だけある門を通り、前庭の中央にある祭壇に置くいけにえを
持って来て、礼拝した。 「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われま
す。(ヨハネ福10:9)」
と主イエスは言われたが、キリストという門から入った者が、天地万物を
造られた唯一の神を礼拝することが出来る。

聖所は毎日、務めをする祭司が入った。 聖所と至聖所との間には隔ての垂れ幕があった。 
至聖所には年に一度、大祭司だけが入ることができた。 至聖所は神のご臨在が満ちており、
神が語られる場所であった。 モーセの時代、ヨシュアの時代と明らかな神の顕現があった。 
ヨシュアは、ほぼ占領したカナンの地の中央に位置したシロに「契約の箱」を安置した。(ヨシュ
ア18:1節)

ところが、その後、祭司の堕落などにより神の臨在が喪失されたかのような時代になった。(T
サムエル3:1)
 ダビデの時代になって、ダビデはエルサレムを宗教的、政治的な中心地とし
(T歴代11:5)、この箱をエルサレムの南西に位置している小高い丘シオンに天幕を張り、そ
こに安置した。(Uサムエル6:12^16、T歴代16:1) このダビデの幕屋は、至聖所だけをシオ
ンの山に移転させた格好になる。 そこでは祭司やレビ人だけでなく、民もみな共に賛美し共
に喜び共に礼拝をしたといわれている。 このような礼拝は革命的なことであった。 

ダビデの行為は、イエスが十字架で息を引き取られたとき、神殿の幕が上から下まで真二つ
に裂けた
が、「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生け
る道を設けてくださったのです。(ヘブル10:20)」
というみことばの予表である。 現代の我々
は、十字架で流されたキリストの血によって、はばかることなく「至聖所」に入り、神の臨在に
触れ、礼拝をし、主のことばを聞くことが出来る。 

「モーセの幕屋」では、祭司やレビ人たちが動物によるささげものに関わり、幕屋の各部の管
理責任も担っていたが、「ダビデの幕屋」では彼らは賛美のために楽器をもち、喜びをもって
歌った。 いけにえは、動物から賛美、義、喜び、感謝、砕かれたたましい(詩篇4:5,27:6,5
0:14,51:17)
になった。 箱をシオンに運び上るときから、喜びにあふれた賑やかさがあった。 
ダビデは踊りを踊った。(T歴代15:3^16:1) この姿を神は喜ばれた。  そして、ダビデは毎
日の日課として祭司とレビ人に神の箱の前で賛美の奉仕させた。

「ダビデの幕屋」での礼拝は、明るく楽しく賑やかであったが、そこにはきちんと秩序が保たれ
ていた。 「王の指揮に従って、預言するアサフの指揮下にあった」「王の指揮に従って、預言
するアサフの指揮下にあった」「賛美しながら預言する彼らの父エドトンの指揮下にあった」

どと書かれている。(T歴代25章) 神と人との交わりが、生きたものになっており、「ダビデの
幕屋」は明るい。 「わたしは光としてこの世にきた(ヨハネ福12:46)」として来られたキリストが
おられるからである。

ダビデ以後、毎日毎日ささげられた喜びにあふれた賛美、全身全霊で神の臨在と力をほめた
たえた神の望まれる礼拝は、ソロモンがその志を引き継いだが、イスラエルの背信により、イ
スラエルはバビロンによって滅ぼされ、契約の箱もどうなったのかわからなくなった。 ともすれ
ば、今日の教会の姿かもしれない。 それでも主は必ず、倒れたダビデの幕屋(教会)を再建
されると聖書に書かれている。(アモス9:11 ) 主イエスは「わたしの教会を建てる(マタイ16:1
8)」
と言われた。

「ダビデの幕屋」からみると、主イエス・キリストは、狭くて小さいがキリストの門からはいって来
て、砕かれたたましいをもって、心から感謝をささげる者、日々絶えず祈ることにより、生きた
神との交わりをする者、神の臨在、聖霊に触れながら主を賛美しほめたたえる者、主の御旨
を知らされ、聖霊の導きによって御こころを行なう者、神の立てた秩序を守る者、そのような者
たちが平和の一致をするような教会を建てようとされている。(マタイ7:13,14,21、Tヨハネ1:
3、ローマ12:2、ゼカリヤ6:13、エペソ4:13) 
そのようなところに対して「ふたりまたは三人が、
わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる」
と言われる。

とにかく、ダビデの時代、使徒の時代のような神の臨在の顕現が回復されるためにも我々は、
主の御前にへりくだって心から祈ること、聖霊主導、聖霊中心の姿勢を常に取ること、みこと
ばを神のことばと真に受け取りつつ読んでいき、みことばが生活の中で実際となるよう求めて
いくこと、主のみこころは何であるかを、よく悟って主に従っていくことなどをしていくきたいもの
である。 

★旧約聖書 イザヤ書 16:5
   一つの王座が恵みによって堅く立てられ、 さばきをなし、公正を求め、 正義をすみやか
   に行う者が、 ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。 

 



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