めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年2月5日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<神のご計画通りに事は進んでいくが、神は人の意思(意志)を尊重される>




★旧約聖書 ハバクク書 2:4
   見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。

★新約聖書 第一ペテロの手紙 1:2
   父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血
   の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にま
   すます豊かにされますように。
  
●我々は、「聖書」という「神のことば」を与えられているが、天地万物を創造された神のこと、
神の真のみこころを、すべて知ることはできないし、今、知っていることもまだ知らなければな
らないほどのことも知ってはいない。 
そのような中でも主イエス・キリストによって真に救われ
た者は、「父なる神の予知に従い、・・・選ばれた」者であることを知る。 「神は私たちを世界の
基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エ
ペソ1:4)」「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神
(ガラテヤ1:15)」
などと聖書に書かれている。

「予知(Tペテロ1:2,使徒2:23)」という言葉は、神があらかじめすべてを知っておられる、とい
うことである。 神は世界の最初から最後までのすべてのこと、性質や思い、考え、行動など
我々一人一人のこと、などをご存知である。 だからと言って、人が神のロボットのように動か
されるのではない。 神は、人に自由意志を与え、人が自由に自分の意志で選択できるように
造られた。 「神は自分のかたちに人を創造された」からである。(創世記1:27) ただ、この
「自由」とは、「自恣(じし):わがまま、欲のまま」とは違う。 「自由」は自ら考え、決断し、行動
することで、そこには責任が伴う。 神が我々に与えられた「自由」は、神の無条件の愛の中
で、自分を束縛する欲望、罪、過去、コンプレックス、などから一切解放され、のびのびと安心
して生きることができるものである。

我々は、人生や世界、他諸々の詳細のことがらにおいて、この神のご意志と人の自由意志の
兼ね合い、係わり合いがどのくらいなのかなど正確に知ることは出来ないが、確かに、神は全
時代を見渡して、すべてを知っておられる。 人は定められた時間の中に生きているが、神は
時間に縛られることはない。 神は「アルファであり、オメガである。最初であり、最後である。
初めであり、終わりである。(黙示録22:13)」 
すなわち、全知全能、すべてをご存知だというこ
とである。 その神がご自身の意志によって立てられたご計画が、人の願いや自由意志によっ
て遠回りすることなく、遂行されるのが一番いいはずである、と著者は考えている。 人の関与
があることがらについては、人の自由意志が神のご計画、みこころに素直に応答していくこと
ができることが最善と考えている。

さて、神が人のことをよくご存知で、その人のために語られた「ことば」を素直に受け入れな
かったという例が聖書中に幾つもある。 旧約時代(紀元前700年頃)のユダ国の王ヒゼキヤ
の場合。 ヒゼキヤは宗教改革をして神の命令を心を尽くして行なったりしたので、「彼のあと
にも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。(U列王記18:5)」

いわれた王だった。 

アッシリヤの王セナケリブがユダ王国を攻めてきたときも、イスラエルの神、主に信頼し、神は
ヒゼキヤ王の信仰に応え、「主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打
ち殺し」
という奇蹟をもってエルサレムを救われた。(U列王記19章) その直後に、イザヤに
よって「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。(U列王記20:1)」と死が宣告され
た。 するとヒゼキヤは大声で泣いて、神に訴えた。 

主は、このヒゼキヤの祈りを聞かれ、彼をいやされ、3日目には主の宮に上ること、15年の寿
命を与えることを約束してくださった。 しかし、15年寿命が延びたことは、それはむしろ良い結
果を生まなかった。 ヒゼキヤ王がいやされた頃、彼のもとに、当時まだ小国であったバビロン
帝国の王メロダク・バルアダンから、使者が見舞いにやって来た。 

ヒゼキヤは全快と見舞いの喜びのあまり心が舞い上がった。 使者に宝物倉を開いてすべて
のものを見せてしまう。 彼はアッシリヤに打ち勝つことができたこと、国々から尊敬され、その
財宝に恵まれたことのため高ぶった結果の行動だった。  

長生きした15年の間に、自分の致命的な失敗のため、イザヤから後に起こるバビロン捕囚の
ことを預言されても「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」と自分が生きている間
は平和で安全なのだろうから、と自己中心になり、15年の間に生まれたマナセは、祖父アハズ
が行なったこととまったく同じこと、神の忌み嫌われることをして、ユダとエルサレムが滅ぶ原
因を作ることになった。

神は、ヒゼキヤのことをよくご存知だったから、「あなたは死ぬ」と召されることを宣言なさった
のかもしれない。 そのときであれば、信仰の勇者として、信仰の競走を最後まで走りぬいた
者として召されたであろう。 しかし、ヒゼキヤは必死に、自分の命の延長を求めた。 主イエ
スは「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを
救うであろう。(ルカ9:24)」
と言われたが、正にその通りである。 

ヒゼキヤのことをよくご存知であるならば、命を延長しなかったらよいのではないか、という考
えもある。 しかし、ヒゼキヤの願いの内容は、決して偽りを言っていないし、何よりも神は、
我々の意思を尊重される方である。 だから、我々がどうしても・・・と強く願うとき、主は強いて
止めさせようとはされない。 また、求める我々の心の奥を見られ、神が「否」と言われても、心
の底から素直に受け入れないことをもご存知なのかもしれない。

例えば、民数記22章の預言者バラムは当時、モアブ国の王バラクから、イスラエルをのろうよ
うにとの依頼されたとき、彼は主から、「イスラエルをのろってはならない」との命令を受けた。 
しかし、彼の心の奥には、金銀に対する欲求があった。 また、それを捨てようとも思っていな
かったようだ。 彼はその思い、願いを抑えて、モアブの王バラクから、使者が来るたび「主が
私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。」
と言った。 

神はバラムの心の奥にある思い、願いをご存知だった。 それで神はバラムにモアブへ行くこ
とを許したが、それでもバラムに主のみこころを気づかせようと主の使いを立たせたり、ろば
にものを言わせたりした。 それでもバラムは表面だけ繕い、本音、本心をさらけ出さなかっ
た。 心の奥にある思い、願いを持ち続けることも、捨てることも、それは、人に任されている。 
人の自由意志によるからだ。 そのときは、バラムは主に従ったが、結局、後に、バラムはイ
スラエル人によって殺されることになった。(民数記31章)

我々は、神の前にいつでも正直に自分の本音、本心からの思い、願いを申し上げ、神が喜ば
れる神のみこころの神が立てられたご計画の中にあるかどうか、またそれに沿っているかどう
かを主に吟味していただき、主に教えていただく、ということは、結構、重要なことであるように
思える。 そして、心の奥底まで主に清めていただくことが大切であろう。 

日々の生活の中で、絶えず主の主権を認め、主の前に自分の真の願い、思いを知って、清め
られ、最後まで神の前にへりくだり続けていきたいものである。 そして、神に全面的に委ねて
いく生き方、すなわち「主を恐れ、主の御前にへりくだる」ことを徹底していきたいものである。 

★旧約聖書 詩篇 33:11
   主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。(詩篇33:11)






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