めんどり通信/2012年1月22日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <絶えず主の支配の下にとどまり続ける> |
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★新約聖書 ヨハネによる福音書 8:31,32 ・・・もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの 弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」 ★新約聖書 ヨハネによる福音書 6:53^56 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食 べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。 わたしの 肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日 にその人をよみがえらせます。 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み 物だからです。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わ たしも彼のうちにとどまります。 ●神は霊である。 人の肉眼では見ることができない。 聖書には多くの奇蹟が記されている。 神は「ご自身が存在される」ことを人に知らせるため、「ご自身が栄光を現わされる」ため、人 が、「神が主である」ことを知るようになるために「奇蹟」を行なわれた。 いわば、「奇蹟」に よって人が「神を見る」ためである。 旧約時代、出エジプトしたイスラエル人たちは、多くの奇 蹟を体験した。 しかし、彼らは奇蹟を体験してもすぐに、偶像礼拝jに走り、姦淫し、主を試 み、主につぶやいたりした。 だから出エジプトした世代の者たちは、カレブとヨシュア以外、 約束の地カナンには入れなかった。 イエスがキリスト(救い主)として立たれた3年半、行なわれたこと、奇蹟と呼ばれることを「いち いち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい(ヨハネ福21:25)」と聖書 には書かれている。 これらの奇蹟をいつもイエスに従っていた弟子たちやイエスの周りにい た群集は見ていた。 そして彼らは恐れを抱いて、神をあがめたり、驚いたりしていた。(マタイ 9:8,12:23,ルカ7:16) しかし結局、群集はみな「イエスを十字架につけよ」と寝返り、弟子と呼 ばれた多くの者も主から離れて行った。(ヨハネ福 6:66) いずれにしても旧約のイスラエル人も新約の群集(イスラエル人)も多くの弟子たちも、彼らが 主なる神イエス・キリストから離れた原因は、表面の出来事(奇蹟)に焦点をあわせて、奇蹟を 現わされた神に焦点をあわせていなかったからである。 なぜ、焦点を神に定められなかった のか? それは彼らが主なる神に支配されていたのではなく、悪霊の支配、影響を受けていた からである。 イエスは宮で教えを語られたが、そのうち多くのユダヤ人が主を信じた。(ヨハネ福8:30) イエ スは、主を信じたユダヤ人たちに、「主イエスのことばにとどまる」ことを言われた。 しかし、彼 らはイエスの語られたことばに自分たちが納得することは受け入れたが、自分たちの考えや 思惑と違うことについては、かたくなに拒否し、自分たちの考えを主張し押し通して一歩も譲ら なかった。 そんな彼らにイエスは「あなたがたの父は悪魔である」、だから「主のことばに耳を 傾けることができない」と言われた。 すなわち、悪魔や悪霊の支配、影響を受けているなら、 主イエス・キリストのことばを心を落ち着け注意して耳に入れることができない、真剣に聞くこと が出来ないということである。 霊も霊に関することも基本的には見えないもの。 その見えない「霊」に、好む好まざるに関わ らず、人は「霊」の影響を受けている。 この世で生きている以上、「この世の君」であるサタン (悪魔)か真の神かいずれかの支配、影響を受けている。 しかし、行ないやことば、出来事な どを通して、何の霊の支配、影響を受けているかはわかるものである。 ただ、それを正しく見 ることは、なかなか難しいものである。 それは「霊を見破る」「霊を見分ける」ことであるから だ。 それでも、真剣にみこころを求めている者、真に自分を捨て、自分の十字架を負うて主 に従おうとする者には、悪しき霊の影響を受けないよう守られるなり、「霊を見破る」ことができ るようになりしてくださる。 ただ、「霊を見破る」「霊を見分ける」ことについては、主による様々 な経験を通しての訓練が必須であるようだ。 「霊を見破る」ことがなぜ、必要なのか。 それは、我々が表面的なことば、行動にだまされて 「永遠の命」を失わないためである。 詳細、かつ明確なボーダーラインはわからないが、主イ エス・キリストを信じているクリスチャンであっても「聖霊に導かれている」とはいえない者もいる と思われる。 またクリスチャンでない者は、通常、神の支配下にはないが、主は救おうとされ ている人に対して、様々な方法、形で神のあわれみを提示しておられる。 そういうときには、 聖霊の働きによって、クリスチャンでなくても主の影響を受けている場合が多いと思われる。 「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言 葉は霊であり、また命である。(ヨハネ福6:63)」と言われたが、主イエス・キリストのことばに耳 を傾けることができないなら、霊は生きた働きをせず、成長もしない。 人は、霊によって主な る神イエス・キリストと交わることが出来るのである。 主なる神との交わりがないなら、この真 の神と何の関係もなくなる。 父なる神と主イエス・キリストがおられる天の御国(真の天国)と 何の関係もなくなる。 しかし、キリストの支配、影響を受けている者が、たとえ失敗したり、罪を犯すことがあっても、 主が必ず、立ち直らせてくださる。 ペテロがいい例である。 3度「イエスを知らない」と逃げて も彼は立ち直らされた。 主の支配下、影響下にあったことが大きな要因である。 しかし、イ スカリオテのユダは「サタンがはいった」ときからサタンの支配下に入った。(ルカ22:3) そして イエスを裏切り、首をつった。 同じ裏切りであっても一方は立ち直らされ、最後まで主に従うこ とを全うでき、一方は滅んだ。(ヨハネ福17:12) 結局、主の支配の下、主の影響の下に居るということが重要である。 主の支配、影響の下に 居ることは、人の心の底にある思い、本音、本心を主が良しとされているかどうかが結構、肝 要であると思われる。 人を曲がった道、偽りと惑わしの道へいざなおうと我々の「敵である悪 魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回ってい」る。(T ペテロ5:8) だからなお更、我々がすべきことは、真に主イエス・キリストに祈り求めて、心の 底から清められて、絶えず主の支配と影響の下に自分を置くこと、主のみこころに従っていくこ とであろう。 そのためにも日々、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねること、いつも祈るこ と、神に依り頼むことをしていきたいものである。 また、神のことばと信じて聖書を読み、聖霊 の流れに乗っていきたいものである。 主は生きておられる。 ★旧約聖書 詩篇 5:8 主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、あなたの義によって私を導いてください。私 の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。 ★新約聖書 ヨハネによる福音書 6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話 したことばは、霊であり、またいのちです。 |
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