めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年1月15日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<些細な事からでも主の御心を知り、古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなった実際を見ていき、そのような実際の者となるために祈る>




★新約聖書 第二コリント人への手紙 5:17
   だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去っ
   て、見よ、すべてが新しくなりました。

★旧約聖書 箴言3:6
   あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにさ
   れる。

★新約聖書 エペソ人への手紙 5:8〜10、5:16,17
    あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子ども
   らしく歩みなさい。――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。―― そのた
   めには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
   ・・・悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よ
   く悟りなさい。

●ついこの間のこと。 病院へ車で出かけ、交差点で一旦停止をして左に曲がろうとした。 そ
のとき、右側にあった歩道の上に鳩らしき鳥の死骸があったように見えた。 昨年までの数年
間、約束のことばを頂いてはいたが、祈っていることがなかなか表面にあらわれない忍耐の時
を過ごしていたので、「鳩が死んでいる?聖霊の働きがない?ということなのか?」などと気に
なり、確認してみようかという思いや鳩が死んだことを聖霊の働きと関連付けるのは思い過ご
しだろうという思いが代わる代わる出てきたので主に尋ねた。 すると様々な声やら思いやら
が湧き上がってきた。 それで、主のみこころを知ろうと一呼吸すると、「出るがまま」という「こ
とば」が与えられたので、その「ことば」に従った。

Uターンをせずに、前進だけして我が家をもう一度通り越し交差点に来た。 幸い、後方からの
車がいなかったので一旦停止を長めにして車窓から確認した。 すると、やはり小さな鳩の死
骸だった。 「やっぱり そうか」と思いはしたが、落ち込むような感情はなかった。 「このこと
で主が何かを教えようとしておられるなら教えてください。 そうでなければ自然界のありがちな
ことで終わらせます。」と祈って目的地へと車を走らせた。

少し走ったとき、ふとレビ記主がモーセに言われたらい病人が清い者とされる時のおきて
の箇所を思い出した。 それは、「・・祭司は清めの儀式をするため、その人(らい病人)に命じ
て、生きている清い鳥二羽と、杉の枝、緋糸、ヒソプの枝を用意させる。 祭司は新鮮な水を満
たした土器の上で鳥の一羽を殺すように命じる。 ・・杉の枝、緋糸、ヒソプおよび生きているも
う一羽の鳥を取り、さきに新鮮な水の上で殺された鳥の血に浸してから、清めの儀式を受ける
者に七度振りかけて清める。その後、この生きている鳥は野に放つ。(新共同訳レビ記14:1〜
7)」
という箇所である。 

このところは、イエスの十字架の死と復活を予表している。 世界は神の口より出た「ことば」
によって創造されたが、罪人がゆるされ、潔められるためには、「血を流すことなしには、罪
のゆるしはあり得ない。(ヘブル9:22)」
のことば通り、「清い鳥の血」、すなわち生命(いのち)
を必要とする。 神のひとり子イエス・キリストが天より下り呪の木に掛けられ、多くの者の見世
物となって死なれたのは、我々の罪が赦されるためであった。 また、「(もう1羽の)この生きて
いる鳥は野に放つ」
ことは、キリストの復活を予表する。 「この生きている1羽の鳥」は罪のあ
がないが完成されたことを示す印、血が塗られて、開かれた天に放される。 すなわち主イエ
スの復活は、罪のあがないの栄光の勝利を告げるものである。

聖書は、キリストは我々の罪の重荷を負うて十字架に掛けられたが、3日目によみがえられて
今も生きておられることを証している。 其れのみか、主イエス・キリストを信じる者は罪を赦さ
れ、罪から解放され、(真に)信じる者はキリストの中にあり、彼と一つであり、彼と共に生かさ
れ、彼と共に座する、ということも証ししている。(ローマ6:6^11,8:1^4,エペソ2:5,6,コロサイ
2:10^15,Tヨハネ4:17)
 

それらのことを思い出したとき「そうだ、主が罪を処分して下さっており、古きは終わっていると
いうことだ。 2012年に入った。 主は、真実な方、語られたことばは必ず完了され、成就され
る。」と霊が奮起させられた。 そして「これらの思いが単に肉の思いではないなら、生きた鳩を
見ることが出来ますように。」とひと言、祈って委ねておいた。 病院へ行く途中のことである。

著者は、すべてのことは神の御許しがなければ起こりえないことと信じている。(マタイ10:29) 
すべてのことには神のご計画があり、主はご自身のご計画を成し遂げられることと信じてい
る。(箴言19:21) 神がことをなさるには「神の時」があることと信じている。(伝道者の書 3:1) 
だから、この世には「偶然」ということがあるのかもしれないが、著者にとっては「偶然」というこ
とはないと思っている。

さて、用がすんで病院を出て帰ろうと車で自宅に向かった。 自宅近くになって、ふと左を見る
と、車の左上空に鳩が3羽飛んでいた。 「鳩だ」と思って右側を見ると、右前方の電線に、つ
がいの鳩が仲良く並んで止まっているのが見えた。 主が小さな祈りを聞いてくださったことに
感謝した。 そして、ますます霊が奮起し、信仰に立つことができた。 そしてつくづく、古いもの
は過ぎ去って新しく
ならなければならない、と思った。 今までがどうであろうと、主は時が来れ
ば、ご自身の計画を遂行される。 すなわち、主のことばを成就されるからである。 主が、ど
んなことをなさろうとしておられるのか、聖書に書かれている。 また、個人的に直接なり、いろ
いろな方法なりで主からことばを語っていただく場合もあろう。 いずれにしても、聖書に書か
れている「主のことば」、語られた「主のことば」は、成就する。

ペンテコステの時、下った霊は新しい霊だったが、それももう古くなってしまったと思われる。 
またペンテコステのとき誕生した教会もやはり古くなったと思われる。 2千年前の主イエスの
時代、「新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです(ルカ5:36)」と主が言
われた通り、旧い神の民、律法学者、パリサイ人たちユダヤ人たちと新しい神の民、12弟子や
他の主の弟子たちとは一致できなかった。 終末に入ったといわれる今日、やはり、古びたも
のは過ぎ去って新しくなる必要があるように思われる。 「わたしの教会をわたしが建てる(マタ
イ16:18)
」という主が言われたことばや聖書の「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しく
なりました。
」ということばが、もっと深みを帯びて、今日新たに言われているようにも思える。
「主のことば」が成就されるために、聖霊が以前より更に深く働いてくださっているに違いない。

主が望まれていることは、今までずっと教会はこのようにしていた、今までずっとクリスチャン
は、あのようにしていた、ということではなく、今、主がどうなさりたいのか、主がどうされようとし
ているのか、主が自分に何を望まれているのかということを知って、その主のみこころに従っ
ていくことではないだろうか。 そして、その中には、表面は以前と同じようなことが行なわれて
いくこともあろうが、明らかに「霊」が、「新しい霊」「新しい聖霊の働き」であるように思われる。 
クリスチャンたちの集まり、クリスチャンたるものの在り方、教会などの「古いものは過ぎ去っ
て、見よ、すべてが新しくなりました
」という実際を目の当たりに見たいものである。 また、そ
のような実際の者となりたいものである。 そのためにも日々、絶えず、主イエス・キリストから
目を離さず、へりくだって、誠実に主に尋ねること、絶えず祈ること、神に依り頼むことをしてい
きたいものである。 主は生きておられるから、我々も本当の意味で生きた(活きた)人生にな
るよう、聖霊の流れに乗っていきたいものである。 

★旧約聖書 箴言20:24  
   人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。  





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