めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年12月11日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<神と一対一で向き合って個人的、直接的に主と出会うことが重要>



★新約聖書 ヤコブの手紙 5:10,11
   苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさ
   い。 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、
   ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主
   は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

★旧約聖書 詩篇 30:4〜6
   聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。まことに、御怒りはつかの間、
   いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
   私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」

●人が神と一対一で向かい合い、個人的、直接的に主と出会うことは必要である。 旧約聖書
の登場してくるアブラハム、ヤコブ、ヨセフ、ヨブ、ダビデ、イザヤ、エレミヤ、・・・等。  彼らは
みな、神の前で一人、すなわち神と一対一になった。 新約聖書に登場してくるペテロもパウロ
も主と一対一で向き合っている。 彼らはみな「一人」ではあるが、一般的に言われている「孤
独」とは違う。 彼らには肉眼では見ることができないが「主なる神」がおられたからである。 
それでも、やはり神の前での「一人」「孤独」は、彼らの本心本音がさらけ出された。 また自我
が砕かれるときともなった。

ヤコブの場合。 長子の権利を兄エサウから奪い取った後、20年もの間、故郷を離れ苦労す
ることになった。 そして、ようやく「先祖の国に帰りなさい。(創世記31:3)」と主のことばがあ
り、伯父ラバンのところを出て、「ヤボクの渡し」と名づけられた渡し場にやって来た。 ヤコブ
は、故郷にいるヤコブを殺そうとまで憎む兄エサウを非常に恐れていた。 それで、前もって
使者を兄エサウのところに送ったり、自分の家族、羊や牛やらくだを二つの宿営に分け、一つ
の宿営が攻められ滅ぼされても、残りの一つの宿営が生き残ることのできるようにしたり、
多くの贈り物をすることによって兄エサウの怒りをなだめようとしたりなど策を講じ実行した。

それでも不安と悩みが取り去られないまま、家族や持ち物を先にヤボクの渡しを渡らせた。 
ヤコブはひとりだけ、あとに残り、ある人が夜明けまで彼と格闘した。 「ある人」とは原文より、
神から遣わされた御使いだという。 ヤコブは神の臨在を感じていた。 ヤコブにとっては孤独
な闘いである。 その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ち、
夜明けとともに去ろうとした。 「もものつがい」というのは、太ももの関節つまり骨盤であり、身
体的に人間を支える重要な部分である。 

ヤコブは「祝福してくださるまで去らせません。」と必死に神との出会いの瞬間を逃がすまいと、
執拗に食い下がった。 詩篇22:1の「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのです
か。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。」
の心
境で必死に神により頼んだと思われる。(創世記32章)  

するとその人は、「あなたの名は何というのか。」と尋ね、「ヤコブです。」と答えると、その人は
「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、
勝ったからだ。」
と言った。 ヤコブ(ヘブライ語で「かかとをつかむ者=人を出し抜く者」を意
味する)が、イスラエル(神が戦う、神が支配する、神の皇太子の意味)という名を与えられた。 

神との闘いで、もものつがいがはずれたヤコブは、びっこになった。 それはヤコブは自分の
策略や力に頼れなくなった、弱い者とされ、神に頼らなくては生きていけなくなったということ、
すなわち、ヤコブの最も深い部分、こころの柱が折られ、生まれつきの自我が打ち砕かれたと
いうことである。 神も「? なたは神と戦い、人と戦って、勝った」と言われたのは、ヤコブが自
分の愚かさ、弱さを認め、神の支配を受け入れたとみなしてくださったということであろう。 こ
のように自我が砕かれてからの神との出会いは、深いものである。 ヤコブの「わたしは顔と
顔をあわせて神を見たが、なお生きている。」
ということばから伺える。 それでその所の名を
ペヌエル(=神の顔)と呼んだ。 

ヤコブが最初、個人的に主と出会ったのは、彼が故郷を離れ、伯父ラバンのところに向かう途
中、荒野で不安の中、夜を明かすために石を枕にして寝たとき夢の中であった。 そのとき主
からの祝福の約束を聞いた。 アブラハム、イサクに語られた同じもの、主の約束のことばだ
った。 その上、ヤコブだけに「わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あな
たを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、
決してあなたを捨てない。(創世記28:15)」
ということばを神は語られた。 その所を彼は「ベテ
ル(=神の家)と呼んだ。 
 
このときから、神と格闘した所ペヌエルまでの20年間は、神がヤコブを取り扱われ、砕かれる
重要な期間であった。 ヤコブの20年は、神のことばとは真反対と思えるような苦難の日々が
あった。 ヤコブは、そのような苦難の中で弱くなったところもあったが、往往にして、自分の知
恵と力で乗り切った。 ヤコブは、もものつがいをはずされなければならないほど自我が強
かった。 これはヤコブに限ったことではない。 ともすれば、人は心の奥深くから振るわれた
なら、ヤコブ同様、自我の強い本性が現れるものであろう。 

このようなヤコブのことから学ばされることは、「変わる」ためには、肉が切り取られ、自我が砕
かれて、「わたしは顔と顔をあわせて神を見た」と言えるくらい、個人的、直接的に主なる神と
出会うことが重要であるということだ。 本当に深いところで神に出会ったなら、「変わる」。 
ヤコブのように「あなたの名は何というのか」と問われて「ヤコブです」、すなわち「人を押しのけ
る者です。罪人です。」と告白することができたほどに、「へりくだる」ことができる。

主は人の心の奥を見ておられる。 20年の日々の中で、確かに自我は強く、自分の知恵はフ
ル回転だったかもしれないが、苦難、試練によってヤコブの心の奥には真剣な叫びと祈りが
あったと思われる。 そこを主は見ておられたようである。 この格闘は、神が「ある人」を遣わ
されたもので、ヤコブから求めもとめたものではなかった。 しかし、この格闘によって見事に
自我が砕かれ、深い神との出会いを体験した。 

その後、ヤコブは神が介入されない限り、自分からは、自分の知恵と力では策を講じ実行す
ることができなくなった。 娘ディナの事件でも変えられた結果、黙っているだけで、答えが出せ
なかったヤコブを見ることができる。(創世記34章) 

この自我が砕かれるという時、苦難、悲しみなどが伴っている。 それでも「顔と顔とを合わせ
て神を見た」という経験は、クリスチャンにとって必要である。 そうでないと、主との交わりを喜
ぶことが出来ないからだ。 主の教えを聞くことは出来ても、主からの語りかけを聞くことが出
来ないからだ。 我々は、静かに神と一対一で向き合い、自分の本心本音の姿を見つめ、正
直になり、赤裸々に自分のことを神に告白していきたいものである。 心から素直に主に祈り
求めているなら、ヤコブのように主が臨んでくださるであろう。 我々も我々の内の古きが終わ
り、新しい名が与えられ、日々新しい命に生かされ、主に喜ばれる者にしていただきたいもの
である。

★旧約聖書 詩篇 9:10
   御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨
   てになりませんでした。




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