めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年12月4日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<神の子はアブラハム、イサク、ヤコブの真理を体得することが重要!>



★新約聖書 マタイによる福音書 8:11
   あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハ
   ム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。

★新約聖書 第一ペテロの手紙 3:9
   ・・・あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

★新約聖書 第一ペテロの手紙 1:21
   あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、
   キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっ
   ているのです。

●旧約時代、神はアブラハムを選ばれ、「あなたの子孫はこのようになる。(空の星、海辺の
砂のように数多く増し加える。)」「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受ける
ようになる。」(創世記22:18)
と約束された。 それゆえ約束の子孫は「アブラハムの子孫」と言
われる。 「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。・・・ですから、信仰による
人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。・・・そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人
アブラハムとともに、祝福を受けるのです。(ガラテヤ人への手紙3:6,7,9)」
とある。 クリスチャ
ンはその祝福を受け継ぐ者、アブラハムの子孫である。

アブラハムは「信仰の父」と呼ばれた。 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取
るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行
き、
年老いたアブラハムとサラは約束の子イサクを生み、アブラハムは試みられたときイサク
をささげた。(ヘブル11章) 
 そして、アブラハムはイサクに自分のすべて(物質的な財産、霊
的財産のすべて)を受け継がせた。(創世記25:5)  イサクは、アブラハムから受け継ぐべき
ものをすべて受け継いだ。 そして、「兄が弟に仕える」との神のことば通り、兄エサウにでは
なく弟ヤコブに受け継ぐべきものを受け継がせた。 ヤコブは12人の息子たちに、おのおのに
ふさわしい祝福を与えた。(創世記49:1〜27)

彼らが彼らの子に神の約束、祝福を受け継がせるまでの途中経過において、様々な彼らの
罪や弱さが露呈されたが、神はご自身が語られた「ことば」に、ご自身が責任を持たれ、結
果、それぞれに完了すべき範囲で完了された。 「あなたの子孫は、空の星、海辺の砂のよう
に数多く増し加える。」
というご自身のことばを確固たるものとするために、神ご自身の御手を
もって、アブラハムからイサクへ、イサクからヤコブへ。 そしてヤコブの子12人(12部族)に受
け継がれた。 ここがある意味、基礎、基盤とも言えよう。 その後もアブラハムの子孫は増え
続けることになった。 

クリスチャンはアブラハムの子孫であるというとき、彼だけでなく、イサク、ヤコブの子孫である
ことを知ることも重要である。 人は神を信じ、神もその人の信仰を認め、義とする。 そして、
人は神の祝福、賜物、恵みを受け取る。 それらはイエス・キリストにおいて備えられている。 
そして、神の祝福を受け取るにふさわしい器として神によって整えられる。 アブラハムの信
仰、イサクの受け取り、ヤコブの訓練、試練。 クリスチャンは、これらのアブラハム、イサク、
ヤコブに啓示された真理を体験する、すなわち獲得すべきである。 

クリスチャンの真の目的地は天の御国である。 そのため、この地上をゴールである天の御国
に向かって旅人として歩むことが神のみこころである。 この地上を、主キリストによって訓練
を受け整えられつつ、御子イエス・キリストにおいて備えられた神の恵み、賜物を受けながら、
神であり救い主であるイエス・キリストの義によってペテロたちと同じ尊い信仰を受けその信
仰によって生きて
いくことが、本当のクリスチャンの歩みであり、神の子としての務めでもある。
Uペテロ1:1、ハバク書2:4

ことばで書くことは簡単だが、実際は結構、難しい。 しかし、何が難しくしているかというと、生
まれながらの性質(肉)であり、自我である。 本来、神は人間をまっすぐに造られたが、人間
複雑な考え方をしたがる。(伝道者7:29) 人はアダムとエバ以来、賢くなってしまった。 そ
の賢さは神を無視し、サタンの意向さえ汲み取ってしまうほどである。 人は、善悪を知る木の
実を食べて、罪と死とサタンのとりことなった。 生まれながらのその性質は、神から「肉」と言
われる。 肉の思いは死であり、神に対して反抗するものだから、肉にある者は、神を喜ばせ
ることができない。(ローマ8:6〜8) 
 

しかしその人が、主イエス・キリストを信じるならば救われる。 だが、救われたからと言って
「肉」がなくなったわけではない。 生まれつきの性質が一瞬に百%変わるというわけでもな
い。 自我が砕かれ、肉が切り取られていきながら人によって差はあるが、徐々に変わってい
くものである。 その人が、直接、主から語られた「主のことば」や聖書、人、出来事などを通し
て語られた「主のことば」を自分の頭で解釈し、主のみこころと勘違いして受け取り、話したり、
行動したりするということは大いに有り得ることだ。 

しかし、たとえ、主に従っている、みこころを行なっていると勘違いして歩んでいたとしても、へり
くだって主に喜ばれる者になりたいと思い、日々、主に拠り頼む者を主は見捨てられない。(詩
篇9:10) 
だから信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、神の子として
訓練されながら、御子イエス・キリストにあるものを受け継ぎ、すべての良い働きのためにふさ
わしい十分に整えられた者と
していただきたいものである。
(ヘブル12章、Uテモテ3:17)

★旧約聖書 申命記 8:5
   あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、
   知らなければならない。

★旧約聖書 イザヤ書 66:2
    ――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのこと
   ばにおののく者だ。




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