めんどり通信/2011年11月27日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ! <神はご計画を常識では考えられない仕方で遂行される場合がある> |
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★新約聖書 ローマ人への手紙 9:11〜9:16、9:21 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画 の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と 彼女に告げられたのです。 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとお りです。 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんな ことはありません。 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のい つくしむ者をいつくしむ。」と言われました。 したがって、事は人間の願いや努力による のではなく、あわれんでくださる神によるのです。 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないこと に用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。 ●神は柴の中からモーセに「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコ ブの神である。」と名のられた。 アブラハム、イサク、ヤコブについては創世記に記されてい る。 イサクの妻リベカについて見てみる。 リベカは不妊の女であったが、イサクは自分の妻のために主に祈願した。 主は彼の祈りに答 えられ、結婚して20年経って初めて子どもを授かった。(創世記25:20、26) 祈りによって授 かった。 ところが、子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになった。 リベカは主の みこころを求めに行った。 すると「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたか ら分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。(創世記25:23)」と主は仰 せられた。 出産の時、最初に胎内から出て来たのはエサウ。 後からエサウのかかとをつかんで出て来 たのがヤコブだった。 その後、赤くて、全身毛衣のようであったエサウは巧みな漁師、野の人 となり、ヤコブは穏やかな人となり、天幕に住んでいた。 ふたりは対照的な性格であったよう だ。 あるとき、エサウは野から疲れて帰って来て、ヤコブに食べ物を求めた。 するとヤコブ は「今すぐ、あなたの長子の権利(相続権)を私に売りなさい。(創世記25:31)」と求めた。 長 子の権利には、父の身分を継いで種族の代表となる様々な特権があり、二倍の分け前、二倍 の祝福が含まれていた。(申命記21:17) ヤコブはずるいと多くの人は思うかもしれないが、 神は「エサウは長子の権利を軽蔑したのである。(創世記25:34)」と見なされた。 ヘブル人 への手紙12:16にも「一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪 な者にならないようにしなさい。」と書かれている。 さて、イサクが年をとり、視力が衰えて死期が近づいたと思い、エサウを呼んで、鹿の肉を捕っ てくるように命じて、エサウに長子の権利と祝福を与えようとした。 これを聞いた母リベカは、 このままでは主のことば「兄が弟に仕える」とは違ってしまうと思ったのか、急いでそれを阻止 するための行動を取った。 長子の権利を受け継がすということは、単に財産を受け継ぐとい うだけではなく、神がアブラハムに託された使命を継承する役割が伴っている。 だから当然、 神のみこころを尋ね求めてから後継者を定めるのが、父親として、約束の後継者として必要な 責任だった。 しかし、その重大なことが崩されそうになったと危機感を覚えて、咄嗟に行動を とったとも考えられる。 リベカは細工をしてヤコブにエサウに成りすますよう言った。 ヤコブ も母リベカの言うとおりにした。 彼らの罪は、「嘘」と思われるが、どうも神はそれを大きな問題とされていないようだ。 聖書の 中には遊女ラハブがイスラエルのスパイをかくまうために嘘をついたが、そのことは、新約聖 書で信仰によるものだと評価されている。(ヨシュア記2章、ヘブル11:31) リベカの願う通り、 イサクは、第二子ヤコブを祝福した。 イサクがヤコブをエサウと思って長子の権利を渡すた めに祝福しているが、そのことばの中に「エサウ」という名前を言っていない。 「おまえ」という ことばが使われ、エサウにはエサウ本人とわかって「おまえの弟に仕えることになる」とはっき り語っている。 ここに神の支配と采配を感じる。 イサクがヤコブを祝福したことが、エサウに発覚してからエサウはヤコブを殺そうとした。 リベ カはヤコブを彼女の故郷にいる兄ラバンのところへ逃がしたが、決してヤコブだけを愛してい たわけではないようだ。 「一日のうちに、あなたがたふたりを失うことなど、どうして私にできま しょう。(創世記27:45)」ということばで伺える。 リベカの一連の行動から、彼女は、手段をい とわない したたかな女、自分の願いを遂げるため神のみこころさえ利用したという意見も多い が、そうとも言えないような気がする。 リベカに語られた「神のことば」が彼女の生きる上で最大の土台になっていたように思えるのだ が。 「あなたののろいは私が受けます。(創世記27:13)」ということばから、主のことばに自分 の生涯をかける覚悟もあったように思えるのだが。 リベカはイサクと結婚するときもただ、主 が語られたことばに従う信仰の決断をして、家族と過ごす時さえ持たず、すぐに遠くの地に来 た。 確かにリベカのしたことはすべてが正しい、とは言い切れないが、神がそれらをゆるされ たということは間違いない。 もし「罪」というなら、リベカが神が約束のことばをご自身で実現さ れるのを「待たなかった」ということであろう。 「神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである。(伝道者の書3:17)」と書 かれている。 神は、アブラハムの次はイサク、イサクの次はヤコブと決められていた。 神の 選びの計画は、人の計画や考え、感情など何ものによっても変えることは出来ない。 「私は ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と主が決められていた。(ローマ9:13、マラキ書1章) ただ一 般的な常識から見たら おかしいのではないか、何故、神が許されるのか理解できない、とい うこともあるが、それでも言えることは、神はご自身が立てられたご計画は、どのような方法で あっても成し遂げられるということである。 また、神が許されたことを人はとやかく意見できないということである。 しかし、神が立てられ たご計画は、結果はいつもあわれみに満ちたものである。 大きい(高い)ところで、すべて神 がゆるされていることしか、神は行なわれない。 神の支配、采配がある。 だから我々人は、 外側だけで判断するのではなく、主のみこころを尋ね求め、聖霊の流れに乗っていくことが重 要である。 リベカは、自分が首謀者なので のろいを受けた結果なのかどうか定かではないが、ヤコブが 逃避行した後、ヤコブとの再会なく生涯を終えた。 推測だが、「兄が弟に仕える」の確かな結 果は見ていないが、イサクがヤコブに長子の権利と祝福をしたことを確認できたことは、リベカ にとっては幸いなことだったかもしれない。 神が約束を実現されることを待たなかったというこ とについては、自分の力、考えを介入させたことについて、悔い改めたと思いたい。 いずれにしても、神のことばは、神の時が来たら、神がご自身の方法で、ご計画を実行される ということである。 人は神に用いられる器である。 我々クリスチャンは、あわれみの器として 救っていただいたのだから、尊いことに用いられる器とされたいものである。 そのためにも主 のみこころを知って、主に従っていきたいものである。 ★旧約聖書 イザヤ書 46:10 わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしの はかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。 ★旧約聖書 詩篇 33:11 主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。 |
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