めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年11月20日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<主が望まれる信仰があるかどうか自分を反省し、吟味する>



★新約聖書 第二コリント人への手紙 13:5
   あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。・・・・

★新約聖書 ルカによる福音書 9:23
   イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨
   て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

★新約聖書 ローマ人への手紙 12:2
   この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、
   何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新
   によって自分を変えなさい。

●つい最近、著者がクリスチャンであることと知って、ある人がこんな話しをした。 その人は
仕事がら、各地のいろいろな人と出会い話す機会が多いという。 「あるところで寺の坊さんと
教会の牧師さんが仲良く将棋をしていた…キリスト教は、教えだからと地域の中で違った行動
を取り、協調性がない。 創価学会やエホバの証人なども。教えに固執し過ぎているように見
える。…宗教というのは自分の意思ではなく、上層部、教祖、指導者の影響を受けている。 
洗脳されているように見える。…」などと言うのを聞いた。

その方はキリスト教会は世の諸々の宗教と何ら変わりはないのに、聖書の教えだからと、「・・・
してはならない」「・・・しなければならない」と固執して、強調性に欠けている。 キリスト教も洗
脳教団の創価学会やエホバの証人と同じようなものだ、との感想を持たれていたようだ。

確かに未信者のその方が言われることに一理あると思った。 教会が世と変わらなくなったと
懸念するクリスチャンも出てきていると聞くが、本当に著者もそう思う。 また、「『・・・してはなら
ない』『・・・しなければならない』と固執し」ということは、キリスト時代の律法学者やパリサイ人
たちを連想させる。 

当時、彼らには律法の教えと解釈の権威が与えられており、内容、教えに熟知していた。 自
分たちは律法を厳格に守っていると自負し、民にも守らせていた。 しかし、イエスはこの律法
学者、パリサイ人たちに対して「偽善者、あなたがたは、わざわいである。」と言われ、彼らを
退けられた。(マタイ23章) 

以上のようなことが有り得る。 「みことばを守り行なっている」と言っても、主から見られたと
き、退けられる場合がある。 マタイによる福音書7:22、23「その日には、大ぜいの者がわ
たしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって
悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その
時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ど
も。わたしから離れて行け。』
」と記されているが、この人たちは明らかに「みことばを守り行
なってきた」のではなかっただろうか。 だから主の御名によって悪霊を追い出すことができ、
奇蹟を行なうことができたのではないだろうか。 

しかし、そのような彼らにイエスは「知らない。不法をなす者ども」と言われた。 「天におられる
わたしの父のみこころを行なう者」
とは見なされなかった。 むしろ、洪水が押し寄せたり風が
吹いたりすると倒れてしまう砂の上に自分の家を建てた愚かな人(マタイ7:24〜27)、「火」で焼
かれる「木、草、わら」で「建物」を建てた愚かな人と見なされた。 律法学者やパリサイ人たち
のように露骨にイエスに敵対していなくても、御名によって悪霊どもを追い出したり、奇蹟を行
なったり、傍から見れば主に従っていると見受けられ、自分たちも主に従っていると思っていた
としても、主から「不法をなす者ども」と宣告され、主から追い出されることがあるということだ。 

「人はうわべを見るが、主は心を見る。(Tサムエル16:7)」 このみことばの「うわべ」の中に
は、悪霊が追い出されたことや奇蹟が行なわれたことなども含まれるのではないだろうか。 
そのようなことは、確かに主のみこころである。(マルコ16:17、Tコリント12章) しかし、主が
見られているのは、外側だけではなく内側のこと、人の心の奥底がどうであるかということだ。 

主は言われた。 「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負
うて、わたしに従ってきなさい。(マルコ8:34)」
 真の「主のみこころ」とは、みこころを行なう者
の自我が砕かれ、肉が切り取られること。 内側の主の喜ばれないところが聖霊の焼き尽くす
火で焼かれること。 すなわち、自分を捨て、自分の十字架を負って主イエス・キリストについ
て行くことである。 自分の肉の考え、思い、計画などを捨て、主のことばを優先する、そのよう
にして主に従っていこうとする者が、悪霊を追い出したり、預言したり、奇蹟を行なったりする
のであれば、主はその人を「金、銀、宝石で家を建てる、岩の上に家を建てる」賢い人と見なし
てくださる。 

たとえ悪霊を追い出したり、預言したり、奇蹟を行なったりという働きができなくても、主と主の
ことばを優先しようとへりくだって主に従っている者は「金、銀、宝石で家を建てる、岩の上に家
を建てる」
賢い人と見なしてくださる。 その賢い一人一人は、キリストにつながっているから、
キリストの影響を受ける。 結局、「みことばを守り行なっている」「神のみこころを行なう」という
とき、「キリストにつながったまま」「キリストにあって」行なうということを主は望まれている。 

この「キリストにくっつく」「キリストにつながる」ことは、自我が砕かれ、肉が切り取られなけれ
ば、くっつき続ける、つながり続けることは難しい。 しかし、主は、心からへりくだって主に従お
うとする者をその人に応じて、主の訓練、試練を与えて、キリストにくっつき続けるのに妨げる
自我を砕き続け、肉を切り取り続けてくださる。 肉が切り取られて完全に無くなったと言える
者はなかなかいないだろう。 あのパウロでさえ晩年でも「完全にされているのでもありませ
ん。(ピリピ3:1)」
と言っている。 それでも、キリストにしっかりつながって行こうとへりくだって
取り組んでいる者に主は目を留めてくださる。 そのような人の上に生きた聖霊の働きを見る
ことができる。

ただ、今日、冒頭のある人が出会ったキリスト教会やクリスチャンの中には、「聖霊が働かれ
ている」教会、クリスチャンがほとんどなかったようである。 使徒時代(使徒行伝4章)やキリシ
タンの時代のクリスチャンたちは、神学、教理を伝えるのではなく、彼らの生きざまそのものが
キリストを伝えることになっていた。 その生き様に聖霊が働かれていた。 だから周囲の人た
ちは、次々信仰を持つようになった。

大々的に聖霊が働かれるには、「神の時」というのはあるが、大々的でなくてもずっと聖霊は働
かれてきた。 しかし、それでも聖霊が働かれていない教会、クリスチャンが多いのかもしれな
い。 それだけ、教会もクリスチャンも世的になっているのかもしれない。 「うわべ」ではなく、
「心の底から」、へりくだって「キリストにしっかりくっついているかどうか」を今一度、祈って吟味
し、聖霊が存分に働かれるよう求めていきたいものである。 主の御前にへりくだって心から祈
り、聖霊主導、聖霊中心の姿勢を常に取っていき、みことばが生活の中で実際となって、キリ
ストを体験し続けていきたいものである。

★新約聖書 マタイ による福音書 23:26
   目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくな
   ります。

★旧約聖書 イザヤ書 66:2
   ――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことば
   におののく者だ。




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