めんどり通信/2011年11月6日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ! <人の人生に計画を持たれている神の御前にへりくだり神と共に歩む> |
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★旧約聖書(口語訳) 詩篇 37:23、24
人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れて も、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。 ★新約聖書 ローマ人への手紙 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて のことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 ★旧約聖書 箴言 23:26 わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。あなたの目は、わたしの道を見守れ。 ●神はアブラハムがウルという町にいたとき、彼に「あなたの土地とあなたの親族を離れ、わ たしがあなたに示す地に行け。」と言われた。(使徒行伝7:2,3) それで父テラ、甥のロト、妻 サラと一緒に神の示されるカナンの地へ出かけた。(創世記11:31) ところが、途中のHaran (ハラン)まで来て、そこに住み着いた。 アブラハムがウルを出たとき、決して平安な状態では なかったと推測される。 アブラハムの弟でありロトの父であったハランの死(創世記11:28)、 妻サラの不妊、ウルの町はバビロンから近く、偶像礼拝がはびこっていた状態、父テラも偶像 崇拝者(ヨシュア記24:2)、息子を失った父テラの悲しみ・・など、アブラハムにとっては「苦し み」の要因が多かった。 途中のハランに留まったのは、どうも父テラの意向が強かったようで
ある。 テラにとって息子Haran(ハラン)と同じ名前の町Haran(ハラン)から離れることができな
かったのであろう。
ウルを出てハランに留まったとき、アブラハムは父の気持ちを察したと思われる。 しかし、神 はそれを否定されたわけではない。 だから父の死後、再度、語られた。「あなたの生まれ故 郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。・・・(創世記12:1〜3)」と。 75歳 になったアブラハムは直ちに従った。 このときから、明確な神の召しに従う生き方が始まった といえよう。 自分が行きたいところに行こうとするのではなく、自分のしたいことをしようとする のでもなく、ただ神が定められた道を歩む、神を基準にした生き方、神に従っていく人生が始 まったのである。 そして、その道は、神からの様々な試練・訓練を受ける道であったが、信仰 が深くなり、神ご自身を深く知る道でもあった。 また神が与えようと望んでおられる祝福、恵み を存分に受け取ることができる道でもあった。 主も最後までアブラハムをささえ、信仰を全うさ せた。 アブラハムが「信仰の父」と呼ばれたのは、神のご計画による。 神はこのアブラハム を通して、「地上のすべての民族を祝福する(創世記12:3)」という計画を立てられていたので ある。 神によって計画が立てられているのは、アブラハムだけではない。 我々一人一人にも、神は 計画を立ててくださっている。 しかし、人は自分で将来の計画を立てようとする。 それは安 心を得たいためである。 決してそれが悪いことではない。 しかし、主なる神、イエス・キリスト 抜きの計画は、自分の基準によって自分の考えで自分が納得できるように計画を立てがちで ある。 その計画は自分が、まっすぐに進めるように考えて立てる。 自分、自分、自分であ る。 「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14:1 2)」「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。(箴言19:21)」と聖書 に記されている。 しかし、神が我々に立ててくださっている計画は、わざわいではなくて、平安 を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものである。(エレミヤ書29:11) を仰ぎつつ、感謝して言えるのは、地上の体が終わるとき、死ぬ間際のときかもしれない。 し かし、それでも、人生の旅の途中、途中で「ここまでの人生、主が定められたものだった。主が ここまでよくぞ導いてくださったものだ。」と主に感謝しながら、主が定められた道を歩んでいる かどうかを知ることはできる。 いずれにしても、信仰は軽いものであってはならない。 主を信じた当初は、「生まれたばかり の乳飲み子のように(Tペテロ2:2)」と言われているように信仰も浅いかもしれない。 しかし、 純粋な、みことばの乳を慕い求めていくなら、成長していくものである。 成長していくということ は、自我が砕かれ、肉が切り取られていくということ、すなわち自分が終わっていくということで もある。 主イエスは、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架 を負うて、わたしに従ってきなさい。(マタイ16:24)」と言われた。 また、主の喜ばれる、主が良しとされる信仰を全うしようと思うなら、ある意味、神の召し、選び がなければできないことでもある。 主が望まれる信仰を全うするということは、主なる神と神 のみこころを深く知るということである。 主と主のみこころは人の頭脳では決して知ることは 出来ない。 なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからである。(Tコリント 2:14、ローマ8:27) 主と主のみこころを深く知るために、人は苦しむことも多い。 なぜなら、 主のみこころを知るのに妨げているのが、人の自我であり、肉(生まれながらの性質)であるこ とが多いからだ。 しかし、自我が砕かれ、肉が切り取られるということがなければ、主なる神 が教えようとしておられる深い、真のみこころを知ることは出来ない。 この深い真の主のみこ ころを知るということは、神が与えようとされる真の祝福に与るということである。 この深い祝 福、恵みに与りながら、天国の祝福の地を求めて人生の旅を続けることができる。 何があっ ても全く打ち倒されることはない。 主が守られるからである。 アブラハムは自分が決めた「人の道」ではなく、「神が定められた道」を選び歩んで行った。 試しや困難があっても神のみこころを選び、神が語られることばに従って行った。 召されたア ブラハムは、その召しにふさわしく歩んだ。 そして「信仰の父」と言われ、「神の友」とも呼ばれ た。(エペソ4:1、ヤコブ2:23) 「人の歩みは主によって定められる。(詩篇37:23)」の「人」は、英語の聖書(KJV訳)では「a good man」=(善人)となっている。 人は生まれながらの善人はひとりもいないが、神が見ら れて善人、良い人がいるということである。 それはアブラハムのように、神の御前にへりく だって、神の定められた道を選択し、神とともに歩んでいく人と言えよう。 また「神がすべての ことを働かせて益としてくださる」のは、そのような「神のご計画に従って召された人々」というこ とになる。 そして、そのような者が「神の子」である。 自我が砕かれながら、肉が切り取られながら、神の御前にへりくだって神とともに歩む、これこ そが本当に祝福される生き方である。 人生の道のりの途中では何が起こるかわからないも のである。 どのような状況になったとしてもすぐさま、主イエス・キリストに拠り頼み、主のみこ ころを知って、主のみこころを選択していきたいものだ。 それが我々がなすべきことであろ う。 そして、何があっても動かされず、正しい位置に立ち続けることができるようになりたいも のである。 「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない(マタイ22:14)」とイエスは言われた。 この地上
生活を終えるときに、「神に目を留められ、神に選ばれた者としてくださったことを心から感謝し ます。」と確信をもって言えるなら何と幸いであろうか。 そのようになりたいものである。 日々、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだってキリストの真実に与 れるよう、また神が定められた道を歩めるよう祈りつつ、天の御国に向かって人生の旅を続け ていきたいものだ。 ★旧約聖書 イザヤ書 66:2 ――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことば におののく者だ。 |
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