めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年10月30日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<「富」と「貧しさ」について>



★旧約聖書 箴言 30:8,9
   不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められ
   た分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と
   言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。

★新約聖書 ピリピ人への手紙 4:19
   また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要を
   すべて満たしてくださいます。

★旧約聖書 申命記 8:18 
   あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あ
   なたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。

●何を基準にして金持ち、貧乏人とするのか、その基準は人によって様々であると思うが、一
般的には資産から借金を引いても億の単位がつくほどを持っている人を言うのだろうか? 聖
書は「富」と「貧しさ」について様々な記述がある。 ただ、字の意味合い通りと、たとえで語られ
ている場合と両方で受け取っていく必要があると思われる。 今回は、字の通りの意味で受け
取って考えてみる。 

クリスチャンは、ともすれば「金銭」について考えたり、「金銭」を持つことが悪いように思ってし
まうところがあるが、我々がこの地上で生活していくために、「金銭」は必要なものである。 社
会や人との関わりを絶って、離れ小島で生活するなら、それほど必要ではないかもしれない
が、皆が皆それをすることはできない。 「金銭」のことは、社会生活をしている以上、常に付き
まとってくることである。 

日本は生活水準、生活状態は、戦前戦後では大きく違う。 またパソコンや携帯電話が一般
的になった昨今は、生活様式は十数年前に比べガラリと変わってしまった。 昭和の時代で
は、人間は貧しいことが美徳であるかのような教えがキリスト教会にはあったと聞いたことがあ
る。 パウロが「貧しさの中にいる道も知っており(ピリピ4:12)」と言っているが、訓練、試練の
ために、貧しさの中に置かれることもある。 その他、中国の農村など国の事情などに影響さ
れて仕方なく貧しさの状況の中にあるということもあるだろう。 

また、試練を受ける前のヨブは、富豪だったので息子たち兄弟姉妹が仲良くしていても、豊か
さを楽しむあまり、ついに神を忘れてしまうことがないように、常に彼らのために祈り、罪のた
めの全焼のいけにえをささげたという。(ヨブ記1:5) 人間というのは、貧しすぎても、豊か過ぎ
ても、罪を犯す可能性が大いにあるものだ。

聖書には「金銭」に関して様々な警告のことばがある。 ★「金持ちになりたがる人たちは、誘
惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。 金銭
を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰か
ら迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(Tテモテ6:9、10)」 ★「金銭を愛す
ることをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。(ヘブル13:5)」 ★「金銭を好む者
は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。(伝道者の書5:10)」

しかし、繁栄のことばもある。 ★「ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れその仰せを大いに喜ぶ
人は。・・繁栄と富とはその家にあり、彼の義は永遠に堅く立つ。(詩篇112:1,3)」 ★「主の祝
福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。(箴言10:22)」 ★「あなたがた
は、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、
あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富
む者となるためです。(Uコリント8:9)」 ★「実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを
楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の
賜物である。」(伝道者5:19)」 

こうしてみると、富、繁栄、金銭は神が与えてくださるものであることがわかる。 旧約聖書
登場人物の中で、富んでいた者といえば、アブラハム、ダビデ、ソロモンがいる。 他にも多く
いる。 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。 主が約束のことばを与え、祝福され
たからである。(創世記15:5,6、24:35) ダビデもサウルから命を狙われて逃亡生活していた
ときもあったが、それでも乏しいことがなかったと言っている。(詩篇23:1) ソロモンは「富と誉
れとをあなたに与える。(T列王記3:13)」
と神のことばをいただき栄華を極めた。 

本来、クリスチャンがあまりにも貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことを、主は望んで
はおられない。 我々にはそれぞれに応じて、「定められた分の食物」がある。 神が一人一
人、あるいは家々に応じて定められている。 アブラハムにしてもダビデ、ソロモンにしても聖
書を見る限り、彼らから豊かになることを求めていない。 神の方が彼らそれぞれに約束のこ
とばを語られた。 そしてその通りになっているだけである。 彼らの願いは「神の近くにいるこ
」だった。 

我々も 富むことについて、金銭について、もし主がことばを語って下さっているなら、そのこと
ばを握って主を信頼して祈ったらよい。 主はそのことば通りになさる。 たとえ、直接的なこと
ばが語られていないにしても本当に必要なら求めたらいい。 ただ、そのときは、まず神、主
エス・キリストを心に据えることである。 そして警告のことば通り、「金を追い求め」ないことで
ある。 それから主が自分に(家に)与えようとしておられる「定められた分」を知ることである。 
本当に自分に必要なものなのかどうか、動機に欲が入っていないかどうか、などを祈りつつ吟
味していくことも大切だと思われる。 また、それを求めるまでの自分、自分たちの金銭に対す
る扱い方、使い方は主のみこころだったのかどうかも祈りつつ吟味することも大切である。 そ
れまでの金銭に対する扱い方、使い方によっては、祈ることにより、砕かれなければならない
自我や切り取られなければならない肉(生まれながらの性質など)が教えられたりするからだ。 
もし、教えられたなら、主の御前に心から悔い改め、清めてくださるよう更に祈る必要がある。

ソロモンは 一旦、神のことばがあって、富が与えられ繁栄したが、基本的には禁じられてい
た婚姻外交や中央集権型の強権政治、女性(王妃七百人、そばめ三百人)の維持費、王宮の
経費のため、他の11部族に税をかけたりした。 ソロモンの40年の治世の後の17年は、神か
ら与えられた知恵に自分の思いと考えを加えた。 表面的には繁栄を極めたが、一方では偶
像礼拝のため崩壊が始まっていた。 このように、たとえ神からのことばがあったとしても、自
分の欲望や肉の考え、思いを混入させるならば、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分
を刺し通すことになる。
 
銀も金もすべてのものは神、万軍の主のものである。(ハガイ2:8) 主の方が我々それぞれに
何が必要なのか、どのくらい必要なのかをよくご存知である。 だから、我々は主が与えてくだ
さる「定められた分の食物」で満足できるようになりたいものである。 金銭はこの地上で生活
をするためだけに必要なのではなく、主に仕えていくために必要なものであるということを捉え
ておきたいものである。 

我々クリスチャンにとって重要なのは、主なる神との愛の関係である。 どんなときにも「神の
近くにいることが、しあわせなのです
」と言えるようになることを主は望まれている。 だから、
金銭を求めることについても、主イエス・キリストとの交わりが深まることになるため、主に仕え
るためということが、まず第一になるように心がけたいものである。 

★旧約聖書 詩篇 73:28
   しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。・・・




めんどり聖書研究会