めんどり通信/2011年10月9日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ! <霊的に成長しながら、より深い神の恵みを受けつつ主に仕えたペテロに学ぶ> |
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★新約聖書 第二ペテロの手紙 3:18
わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。 ★新約聖書 第一ペテロの手紙 5:5 ・・・神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。 ●12弟子の筆頭ペテロは、「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建て ます。(マタイ16:18」と主イエスから明確に、石、岩だと名指しで言われた弟子であった。 とこ ろが、出しゃばりすぎたり、的はずれであったり、イエスに一番多く叱られた弟子であった。 ペテロはだれにも負けないほど情熱をもってイエスに従う者であったが、直情でおっちょこちょ い、血気盛ん、臆病、それでいて自信過剰な弟子でもあった。 変貌山でイエスが天での栄光の姿を見せられたときは、驚きと恐れから思わず「三つの幕屋 を造ります。」などとわけのわからぬ言葉を発してしまったり、ガリラヤ湖の荒れる波の上を歩 かれるイエスを見て、自分も水の上を歩くほどの信仰を見せたかと思うと、荒れ狂う海を見て、 急に怖くなって溺れそうになったり、素晴らしい信仰を告白したかと思うと、「下がれ。サタン。」 とイエスに叱られたりと、失敗エピソードは実に多い。(マタイ14章、16章、17章他) ペテロの最大の失敗は、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできて おります。(ルカ 22:33)」とイエスの前で公言したその舌の根も乾かないうちに、「私はあの 人を知らない」と三度も繰り返して言い、イエスを裏切ったことである。 ペテロはイエスを愛し ていながら、主を否んだ。 それまでのイエスに対するペテロ自身の心に矛盾した自らの言動 に、苦しんだことであろう。 自分の弱さと愚かさを,それまで以上に身に染みたに違いない。 しかし、主イエスはペテロのことをよくご存知だった。 ペテロは、とにかく主を愛した。 主に従 おうとした。 失敗の度にただ単に後悔するというのではなく、主への心からの悔い改めがあっ た。 そのようなペテロを主は見ておられた。 だから一つ一つの失敗を、主は無駄にされな かった。 ペテロを作り変えるための道具にされた。 後に、教会が誕生したペンテコステの日 に、聖霊がペテロに下った後、これらの失敗の経験の一つ一つがペテロを変えていたこと、大 いに益になっていたことを見ることができる。(使徒行伝2章) ペンテコステの日以降のペテロは、足の不自由な人を癒したり、神殿で説教したり、ペテロの 説教で3千人、5千人が主を信じたり、投獄され、法廷で尋問されても、少しも臆することなく、 明快な答弁をしたりした。 人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペテロが 通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。 使徒行伝に大き
く変わったペテロの様子が記されている。
主は、ペテロという人を、神に存分に仕えることができる器にしようと選んでくださっていたので ある。 だから、ペテロの血気盛んな肉を切り取り、自我を砕くために 失敗することさえも、良 しとしてくださった。 ペテロは、自我が砕かれ、肉が切り取られるたびに成長した。 外側から しか見えなかった人が、霊の成長により、表面の言動に左右されず、霊で人を見れるように なった。 主の語りかけを霊で聞き、主のみこころを霊で悟った。 霊的に成長すればするほ ど、主に正しく従うことができるようになる。 「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益もも たらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(ヨハネ福 6:63)」とイエスは言われた。 聖書に「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。(ローマ8:14)」というみことばが あるが、ここの「子ども」はギリシャ語の原語によると幼児を意味しているのではなく、成長した 子ども、または神の子のことを意味しているという。 また、霊が成長することは、神が与えよう とされる恵みを豊かに受け取れるようになる。 恵みや祝福を豊かに受け続けていくなら、主イ エス・キリストへの感謝が増し加わっていくということにもなる。 さて、ペテロは主イエスから、直接、訓練を受け、ペンテコステ以降も訓練試練を受けながら主 に仕えていった。 このペンテコステのときもそれ以降も、十分変えられて、完成されたかのよ うにも見受けられた。 そのようなとき、ガラテヤ人への手紙2章に書かれているが、ペテロは パウロから抗議を受けた。 ペテロが、初めは異邦人と食事をしていたが、ユダヤ色の強い割 礼派の人が来たときに、その食卓から離れるという偽善行為が、律法を守ることが必須である かのような錯覚を起させたからだ。 そのとき、パウロは、みなの面前で猛然と抗議した。 それに対してのペテロの応答、反応は記されていないが、ペテロはそのパウロのことばの前に へりくだり、心から悔い改め、残っていた肉が切り取られたと思われる。 このガラテヤ人への 手紙が書かれたのは、およそAD54年頃のことであるが、その後もペテロは変えられ続けたよ うである。 その結果、要約するなら「キリスト者はいかに生きるべきか」ということを、第一ペテ ロの手紙(AD90年代前)、第二ペテロの手紙(AD100年代中頃)で書くことができたのではな いだろうか。 しかし、それでもやはり完全ではない。 あのパウロでさえ「兄弟たちよ。私は、自分はすでに 捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘 れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄 冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」と回心して信仰生活の後半で 語っている。(ピリピ3:13、14) 我々ももう十分だ、これだけ変えられたのだから、大丈夫などとは言えない。 確かに、主イエ ス・キリストを救い主と信じて救われた。 「罪の結果は死である」から解放されたかもしれな い。 しかし、救われたから、もう罪人ではない、とは言い切れない。 我々は、我々独自にで はなく、「キリストにあって正しい者」と数えられるのである。 キリストの十字架の下に常に留 まっていなければならない者なのである。 主も「だれでもわたしについて来たいと思うなら、 自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(ルカ9:23)」と言わ れる。 神が我々に望まれているのは、主のと主のことばの前にへりくだることである。 主と主のことばの前にへりくだっている者は、主がその人に応じての訓練、試練を与え、成長 させてくださる。 みことばの乳を飲むことによって我々は霊的に成長する。(Tペテロ2:2) そ
して、いつまでも幼子ではなく、大人に成長していく。 霊的に成長するということは、肉が切り 取られ、自我が砕かれていくということになる。 キリスト無くしては何もできないということを徹 底的に悟るようになっていく。 また、より深い神の恵みを受けることが出来るようになることで もある。 ペテロは真の主のしもべとなるまでに、多くの失敗と挫折を繰り返し、その度、イエスに叱られ たり、励まされたり、慰められたりして、十分に時間をかけて、徐々に主のしもべとしての姿に 変えられていった人である。 我々も、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、主の御前に素直にな
り、主を愛していきたいものである。 何か失敗したり、自分の愚かさや弱さを思い知らされた りしたとき、素直に神の前にへりくだって、あわれみを求めたり、心から悔い改めたりして、肉 を切り取っていただきたいものである。 今週も時間をかけて祈り、聖霊に触れられて、キリス トを体験しつつ、主に喜ばれる者に変えられていきたいものである。 ★新約聖書 ヘブル人への手紙 5:14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚 を訓練された人たちの物です。 |
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