めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年10月2日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<心の思いを悪霊が入る入り口にならないように力の限り、見張れ!>



★旧約聖書 箴言 4:23
   力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

★旧約聖書 詩篇 141:3
   主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。

★旧約聖書 詩篇 15:1,2
   主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むので   
   しょうか。 正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。

●聖書の中で(悪の)霊の影響を受けた人がいろいろ登場してくる。 その中で旧約聖書に出
て来るサウルは、イスラエル国の初代王であった。 最初、サウルは謙遜な人だった。(Tサ
ムエル9:21)
 しかし早々と彼の本心、本音が現れた。 サウルはサムエルにギルガルで七日
間待っているように言われていた。 ところが、「七日間待ったが、サムエルはギルガルに来な
かった。それで民は彼から離れて散って行こうとした」
ので、民をひきつけておくために、サウ
ルが全焼のいけにえをささげた。 いけにえをささげるのは祭司かレビ人である。 ベニヤミン
の部族のサウルにはそのような任職は神から与えられていない。 明らかに自分の威信を保
つための越権行為である。(ローマ12:3)  たとえ緊急であっても状況だけを見て、神のこと
ばを無視し、自分の判断で生きる者を主は用いることが出来ない。 主は、目に見える状況が
どうであっても、最後まで信仰によって、神のことばを守る者を導かれ、その者のために働か
れる。

また、サウルは、アマレク人との戦いの時、そのすべてのものを聖絶せよ、と主が命じられた
声に従わず、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。 預言者サムエルが「私の耳に
はいるあの羊の声、牛の声はいったい何ですか。」
と問い詰めると、「・・・民は羊と牛の最も良
いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。・・・(Tサムエル1
5:15)」
と答え、民のせいにしつつ、不従順を正当化させようとした。 

明確にサムエルから不従順を指摘されても「私は主の御声に聞き従いました。(Tサムエル1
5:20)」
と言い張った。 サウルは、自分のメンツを保つこと、見栄や欲望を第一にすることを
やめなかった。 ついに主はサウルを王位から退かせた。 その後、主の霊はサウルから離
れ、悪い霊が彼をおびえさせるようになった。 しかし、それでも自分を第一にすることをやめ
なかった。 いわば自分勝手に生きたいという願望を捨てる気はなかったようである。

主はサウルの代わりにダビデを選ばれた。 ダビデはエッサイの末の子で、まだまだ指導者と
しての品位などが備わっていない羊を飼う牧童だった。 しかし神は、ダビデの心の奥を見ら
れた。 彼には心から神を愛し、神に従って生きようとする本心、本音があった。 

サウルはこのダビデの命を狙い続けたが、反対にダビデに二度も命を助けられた。 言いか
えるならば、そのことで神はサウルのために悔い改めるチャンスを与えられたのだ。 しかしサ
ウルは声をあげて泣きはするが、またすぐに同じことを繰り返した。 ダビデを殺そうとした。(1
サムエル24章、26章)
 ともすると、ねたみは人を殺人へといざなう。

サウルの心の奥に潜んでいたものは、自分の願い、考え、思いを貫き通したいというもので
あったと思われる。 自分の見栄や欲望のために嘘をつき、それを主張した。 それらは、神
の御心と反対のものであり、それを処分する気は、サウルにはなかったということである。  
そのような思いや考えが悪い霊の入り口になっていた可能性がある。 恥も外聞も欲望も捨て
て、本当に変わらなければならないという願いや、思いがなかったから、真の悔い改めに至る
ことができなかった。  

悪い霊に入り口を開けてしまうと、その人の心は悪くなる一方である。 表面はどのように装っ
ていても、人間は「いざっ」というときにその人の本心、本音が出るものである。 それまでに気
づかなかった神が喜ばれない本心、本音。 いやもしかしたら最初は気づいていたかもしれな
いが、それを放置するうちに気づかなくなってきたということも有り得る。 

神は人の意思を尊重、優先される。 人が嫌がっているのに、人に対して無理やり何かをなさ
るということはない。 サウルの場合は、自分の欲望や肉からのものを離す気がなく、いわば
自分の心の底にある思いを遂げようとした。 「行ない」や「ことば」が神に喜ばれないと指摘さ
れても、決して認めず、自分が納得いくように思い、考え、それを貫き通す。 それを悪霊が見
逃すはずはない。(Tペテロ5:8) ますます、悪霊への入り口が広くなるばかりである。 次々
と悪い霊の思いが注入される 。 サウルの場合、最後はペリシテの戦いで深手を負って、敵
に殺されることを拒んで自ら剣の上に倒れこんで自殺した。 人生の結末が悲惨である。 死
後についても、神がおられる天の御国に入ったとは思えない。

人の心と心の思いを何が支配するかで生き方決まってくる。 神の霊、聖霊によって支配され
るのか、悪い霊によって支配されるのか。 人が、自分の心と心の思いは自分のものだから、
誰にも支配されない、自分が支配している、と言ってもその背後で悪い霊が支配しているとい
う場合が、結構、多い。 何しろサタンこそ「この世の君」と呼ばれ、「この世」を支配しているの
である。(ヨハネ福14:30) 

いずれにしても、主は人の心の奥を見られている。 真実を望まれている。 うそ偽りのない願
い、思いを見ておられる。 皮肉なことに悪い霊も人の思いを見ている。 もちろん神が見られ
るようには 見ることはできないが、人の思いは、いくら心の奥に潜ませていても 言動に表れ
るものである。 咄嗟の時には表れやすいものだが、いざっというときでなくても、当の本人は
気づかなくても雰囲気などで本心、本音が表れていることも多い。 とにかく 悪い霊はどうに
かして人を神から引き離そうとする。 人が主なる神に求めることをさせないように様々な巧
みな思いを持ち込んでくる。 悪い霊は人が入り口を開けていない場合でも働いてくることも
多い。 しかし、入り口を開けていたなら、なお更、働いてくるであろう。 人の弱みに付け込
んできたり、罪を犯させたり、傷を責めたり、人と人との間に誤解を入れ人間関係を悪くした
り・・・・など。 そして、まんまと悪い霊にだまされて真の神、主イエス・キリストから引き離さ
れてしまうということになりかねない。人生が破滅に向い、悪い霊によって精神の病になっ
てしまうということも有り得る。 

だから我々は真実な気持ちで、神の御前に出て真実な願いを述べていきたいものである。 
心の奥の思い、願いが神の喜ばれる真実なものであるならば、主イエス・キリストが、心と思い
を守ってくださるであろう。(ピリピ4:6,7) また、主とともにいて、主との交わりをする人とは、
「心の中の真実を語る人(詩篇15:1,2)」と聖書に書いている。 自分の語る口、心で語る口(心
の思い)の両方をキリストにあって見張っていくことは必須であろう。 そのためにも御霊に導
かれることが重要である。(ローマ8:14)

日々、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、へりくだって、誠実に主に尋ねること、絶え
ず祈ること、神に依り頼むことをしていきたいものである。 主は生きておられるから、我々も
本当の意味で生きた(活きた)人生になるよう、聖霊の流れに乗っていきたいものである。 

★旧約聖書 詩篇(口語訳) 19:14
   わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが/あなた
   の前に喜ばれますように。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 8:6,7
   肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。 というのは、肉の思いは
   神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従でき
   ないのです。



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