めんどり通信/2011年8月14日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ! <人がきちんと握るべきこと!> |
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★新約聖書 第一コリント人への手紙 8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私 たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられる だけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。 ★新約聖書 第一ヨハネの手紙 5:20 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知って います。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいる のです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。 ★新約聖書 ヨハネによる福音書 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通し てでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 ●「聖書」は全巻、神がご自身の支配の下に、人間を用いて、神が書かれたものである。 す なわち神が著者であり、神のことばである。 その聖書が、神のことば=神=主イエス・キリス ト=永遠の命を主張している。(Tヨハネ5:20、ピリピ2:6、ヨハネ福1:1^4、1:14、17:3) クリスチャンが目標としているのは、一言でいうなら永遠の命を受けて天の御国に入ることで ある。 このことは、本来は、すべての人が目標、目的とすべきことである。 人がひとりも滅び ることを人間を造られた神は望んでおられないからだ。(Uペテロ3:9) 聖書から見て、我々人間が、本来しっかり握っておかなければならないことは、唯一の神がお られ、唯一の仲介者である主なるイエス・キリストがおられること。(Tコリント8:6、Tテモテ2: 5) 世の偶像の神は実際にはないものであること。 すべての人は罪を犯したため、神の栄光 を受けられない罪人であること。(ローマ3:23) 罪から来る報酬は死であること。(ローマ6:23) よって人間は、本来は皆、滅びるはずの者だったこと。 ところが、一方的な神のあわれみのゆえ、人間に救いの道が与えられたこと。 それは、神の ひとり子イエスが、我々の罪の身代わりとなられ、十字架で死んでくださったこと。 主は十字 架で罪、咎、病、・・・を処分してくださったこと。 そして、イエスは、御子を信じる者が、ひとり として滅びることなく、永遠のいのちを持つため、私たちが義と認められるために、よみがえら れ、今も生きておられること。(ヨハネ福3:16、ローマ4:25、Uコリント13:4) 人間には、一度 死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっていること。(ヘブル9:27) 人間にとって死後は 二つの永遠があること。 それは天の御国(天国)か火の池(地獄)であること。 人間が、神の 救いを受けることは、永遠がかかっているということ、などである。 よく聞かれることの中のひとつに「もし福音(イエス・キリストのこと)を聞かずして死んだ人は どうなる?」がある。 ★「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。 (ヘブル13:8)」★「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。 (コロサイ1:17)」★「万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見 えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたので す。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。(コロサイ1:16)」など主イエ ス・キリストは永遠の昔から存在しておられることが書かれている。 そして、神のことばについ ては、「★生ける、いつまでも変わることのない、神のことば。★主のことばは、とこしえに変わ ることはない(Tペテロ1:23、25)」などと書かれている。 このようにしてみるとき、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはあり ません。」とイエスが言われたことばは、どのような形かわからないが、御子イエスがこの地上 に来られる以前の人々にとっても、それ以降の人々にとっても、また福音、イエス・キリストのこ とを聞いたことのない人々にとっても、天国へ行く者は皆、イエス・キリストが関わっていると言 えるのかもしれない。 神は生ける者の神であると同時に、すでに死んだ者の神でもある。 そ して天上のもの、地上のもの、地下のものにも、キリストの影響は及ぶ、ということである。 真実の神、永遠の命である御子イエス・キリストは確かに一人一人に どのような形にしろ、ご 自身を知らせている。(Tヨハネ5:20) だから、その一人一人がみな「イエス・キリスト」という 名はわからなくても神の存在はわかるはずである。 「神について知りうることは、彼らに明ら かであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神 の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと 認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1:19,20)」と書かれている。 様々な理由を述べても、そのことを受け入れるかどうかは、その人自身の意思、責任であるこ ととも言えよう。 それでも、慈愛の神は、人を救おうとして様々な事柄、出来事さえも用いて、 人にご自身の存在を気づかそうとしておられる。 拠りすがって来るのを待っておられる。 我々が基本的につかんでいる、「救いはイエス・キリストを信じることによって」ということには変 わりはないが、それでも「救い」について、その他まだまだ多くのこと、ことがらが、人間には知 らされていないことも多い。 確かに、行き先は永遠の天国と永遠の地獄のいずれかである。 しかし、最終の結果までの途中経過については、知らされていないことも多い。 それは神の 領域かもしれない。 だから安易に「セカンドチャンス」「黄泉で待機してその後・・・・」などいろ いろな説を人間が握ることは神の領域を侵すこと、傲慢になること、ではないかと思う。 我々は基本に戻る。 「御子イエス・キリストこそ、まことの神、永遠のいのちであり、わが救い 主であることを信じる。」 「イエスは我々のために十字架で死んでくださり、3日目によみがえら れて、今も生きておられることを信じる。」 ただ、この「信じる」ということが、人から見た、人の 基準の「信じる」と神から見た、神の基準の「信じる」に大きな違いがあるように思われる。 一 旦、主を信じて救われたなら、どのようなクリスチャンでも決して地獄へ行くことなどない、裁か れることなどない、などということはない。 主イエス・キリストを信じて救いを得てもそれを最後 まで全うできる人が少ない。 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広 いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その 道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13,14)」と書かれている。 また「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。(マタイ22:14)」のみことばを考えてみると き、「選ばれる」ということは「最後まで残る」ということであろうと思う。 また神に「選ばれた」と いうことは「最後まで主を信じ続けた」とも言えるのではないだろうか。 そして、「最後まで信じ 続ける」基準も、「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのでは なく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。(マタイ7:21)」と書かれ ているように、やはり 神の基準がある。 神と人の見解は全く違うものである 「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。(Uコリン ト13:5」と書かれているように我々クリスチャンも、神の基準での信仰であるかどうか、今一 度、吟味してみる必要があるかもしれない。 そして神のみこころを行って神に会う備えを万全 なるものにしていきたいものである。(アモス書4:12) そのためにも我々は 信仰の創始者で あり、完成者であるイエスから目を離さないで、しっかり目標を目ざして一心に走っていきたい ものである。(ヘブル12:2) そして主イエス・キリストを信じ続け、神の御ことばを聖霊の助け によって行って、主の御心にかなう者となって、神から見られて、クリスチャン(=キリストに従う 者)と言われる者でありたいものである。 ★新約聖書 ヘブル人への手紙 9:27 人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている 。 |
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