めんどり通信/2011年7月17日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ! <油を用意することについて> |
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★新約聖書 ヘブル人への手紙 12:5,6 ・・・「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならな い。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。 ★旧約聖書 詩篇 139:17 神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多い ことでしょう。 ★旧約聖書 申命記 8:5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、 知らなければならない。 ●クリスチャンの多くは、いつの時代にも主の再臨を待ち望んでいる。 また、クリスチャンの 最終的目標、目的地は天の御国である。 主はクリスチャンが、どのようであったら確実に天 の御国に入れるかを様々なたとえで語られた。 その一つが「十人のおとめ」である。 内容はこうである。 十人のおとめが、それぞれともしび を持って、花婿が来るのを待っていた。 内5人は愚かで、ともしびを持っていたが、油を用意 していなかった。 5人の賢いおとめは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて 持っていた。 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうととして眠り始めた。 夜中に、突然「花婿だ。迎えに 出よ。」との声が聞こえたので、おとめたちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。 ところ が愚かな娘たちは、油の用意ができていなかったので、賢いおとめたちに、分けてくれるように 言ったが、足りないから自分のを買うように言われた。 そして、愚かなおとめたちが買いに 行っている間に花婿が来て、賢いおとめたちは彼と一緒に、婚礼の祝宴に行き、戸が閉めら れた。 そのあとで、ほかのおとめたちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と 言ったが、「私はあなたがたを知りません。」と言われ、婚礼の祝宴に入れなかった、ということ である。 一般的に言われているのが、花婿はキリスト。 ともしびを持つとは、光なる主イエス・キリスト を信じていること。 油は聖霊。 花婿を迎えるおとめはクリスチャン。 夜はこの世の暗闇。 夜中はその暗闇が一番深いとき。 眠るとは、世が強く、抵抗する力が尽きて、罪に陥ってしま うこと、である。 このたとえから主イエス・キリストを信じていても、花婿であるキリストに受け 入れられる花嫁クリスチャンとキリストに受け入れられないクリスチャンがいるということであ る。 それで、花婿なるキリストが来られるから、出迎えて婚礼の祝宴に入れるようにしておくこ と、すなわち聖霊を受けておくことが鍵であるということだ。 また、聖霊を受けてキリストに対 する真実と貞潔を最後まで持ち続けることが重要であるということだ。(Uコリント11:2〜11:4) その通りであると思う。 キリスト教会では、通常、一旦、主イエス・キリストを信じた人に一度 与えられた聖霊がその人から去ることはないといわれている。 ただ、このことに関しては、完 全にそうともいえない。 旧約聖書 申命記22:6,7に「・・・その母鳥を子といっしょに取ってはな らない。必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。・・・」とある。 母鳥と子の関係は、 イエスが「・・・わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように・・・(マタイ23:37)」から、鳩 や鳥でたとえられる聖霊と聖霊により養われるクリスチャンの関係を示すと思われる。 「子が取られる前に母鳥が去る」ことがあり得るということだ。 このように見たとき、聖霊はク リスチャンから去っていくということはあり得ないことではない。 「一旦、救われたら、何をして も どうであっても聖霊は去っていかず、天の御国へ入る保証となってくれるから・・・」というの は、あまりにも虫のいい話しである。 いずれにしても「油を用意する生き方」が大切である。 どのようにして油を用意しておけばよ いのだろうか。 このことに関しても一般的に言われているのが、祈って聖霊に触れること、聖 霊に導かれた生活をすることなどである。 確かにその通りである。 言葉で言えば、簡単なこ とのようであるが、なかなか難しいものである。 「祈り、祈る」と言ってもただ時間を多くかけれ ばよいものではない。 「聖霊に導かれる」と言っても、本当に導かれているのか、わからない ことも多い。 また、自分の心の奥にしまいこんでいた考えや思いを「聖霊に導かれている」 「御心を行なっている」と勘違いや思い込みで行ない、歩んでいるということがあり得る。 愚かな5人のおとめは、案外、一般的に言われるしっかりしたクリスチャンを表しているかもし れない。 おとめたちは花婿キリストから「私はあなたがたを知りません。(マタイ25:12)」と言 われたが、マタイ7章にも、主の御名によって預言をし、悪霊を追い出し、多くの奇跡を行なっ た人たちが、「わたしはあなたがたを全然知らない。(マタイ7:23)」と主から言われている。 愚かな5人のおとめは、聖霊の導きによって主の働きをしていたのではなく、自分の考え、 思いで主の働きをしていた人のたとえかもしれない。 御心を求める祈りをしていたとしても、 主からの訓練、試練を受けていなければ、自分の考え、思いを押し通すことが強くなる。 主からの訓練、試練は、これで終わり、これで良しと人が決められるものではない。 主がこの 人には これだけ訓練し、この人には、これだけ試練を与えよう、と一人一人に応じて主が、そ の時も内容も決めておられる。 数年間、数回、訓練、試練を受けたから、「出来上がった」 「訓練は終わった」ということはない。 聖書に登場してくる多くの神の民、主の弟子たちは、最 後まである意味、訓練があり試練があった。 彼らはみなルンルンな歩み方をしていない。 ま た、訓練、試練は「主よ、試練を与えてください」と軽々しく言うものでもない。 すべては主が決 めておられる。 人がそれらを前もって知ることはできない。 難しいものである。 しかし、真剣に真摯に祈り求めていくなら、主はその心の姿勢を見ておられ、そのような者を子 として扱ってくださる。 だから主は、そのような者にいろいろなことを通して訓練なさる。 聖書 では「神の懲らしめ」と書いている。 主は、子とされた者を愛してくださっているから懲らしめ る。(箴言13:24、8:10) 霊の父は、我々の益のため、我々をご自分の聖さにあずからせよう として、懲らしめる。(ヘブル12:10) 箴言8:10には「銀を受けるよりも、わたしの懲らしめを受 けよ。」と書かれている。 5人の賢いおとめたちは、神が子として扱ってくださり、いろいろな訓 練、試練を受けて油を用意してきたのではないだろうか。 油を用意して、油が溜まればたまるほど、主キリストを本当に知っていくということになる。 頭 で知識でキリストを知るのではなく、生活の中で、人生の中で、人格の中でキリストが実際と なってくる。 その分、自我は砕かれ、肉は切り取られていく。 キリストは肉眼では見えない が、生きておられる。 そのことが、本当に深く深く、実際となってくるものである。 「油を用意する生き方」によって少しずつ入れ物に油がたまっていき、主の再臨のとき、自分 のともしびによって、暗闇の中を照らしキリストをお迎えすることができる。 時々、思い願う。 主の再臨が早いか、この体の寿命が尽きるのが早いかはわからないが、その時がきたら、用 意した油で主をお迎えし、または用意した油に内も外も満たされ、覆われて主に見(まみ)えた いものだと。 いずれにしても、この地上にいる間、、主と主のことばから目を離さず、主の御前にへりくだ り、聖霊の流れに乗っていきたいものである。 そのためにも、自分の思い、考えではなく、本 当の主の御心を知るための祈りに取り組んでいきたいものである。 ★旧約聖書 詩篇 104:34 私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。 |
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