めんどり通信/2011年7月10日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ! <すべてのことで主に信頼し、キリストと直接つながって歩む!> |
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★旧約聖書 詩篇 16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。 ★旧約聖書 詩篇 25:14 主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。 ★新約聖書(口語訳) ヨハネによる福音書 15:4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝が ぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あな たがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。 ●旧約時代、ソロモン王の後、イスラエルの国が北イスラエル国と南ユダ国に分かれ、それぞ れの国に王が立てられた。 南ユダ国には、善王といわれる王が8人いたが、その一人一人 の歩みを見てみると今日の我々も大いに学ばされるところがある。 その中で8代目ヨアシュ王、10代目ウジヤ王について共通点がある。 ヨアシュ王は「祭司エホ ヤダの生きている間は、主の目にかなうことを行なった。(U歴代誌24:2)」 ウジヤ王は「神を 認めることを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。(U歴代誌26:5)」と記されている。 ヨアシュ王の場合。 ヨアシュは7歳で王になるまでの6年間、祭司エホヤダの妻でアハズヤの 妹のエホシェバによって神の宮にかくまわれていた。 アタルヤの王子虐殺を逃れるためだっ た。 そういう状況の中、祭司エホヤダの助言の元で、主の目にかなうことを行なっていたと思 われる。 主の神殿修復のための資金を民から集め、神殿の修復などをした。 ところが、祭司エホヤダが亡くなった後、ユダのつかさたちの中で、偶像礼拝をしたいと願って いた人たちが王を伏し拝んでお願いすると、ヨアシュはそれを聞き入れた。(U歴代誌24:17 ) 彼らは主を捨て、アシュラと偶像に仕えるようになった。 主は立ち返らせようと預言者たちを 遣わし戒めたが、彼らは預言者たちを殺してしまった。 その後、少人数のシリヤの軍勢によって、大きなイスラエルの軍勢が負かされた。(主は敵を 用いて、ヨアシュをさばかれた) ヨアシュは裁判にかけられただけでなく、重病に陥り、さらに 謀反によって殺された。 王たちの墓にさえ葬られなかった。(U歴代誌24:25 ) ウジヤ王の場合。 父アマツヤの後を継いで王になったウジヤは、神を認めることを教えたゼ カリヤの存命中は、神を求めた。 主の目にかなうことを行なった。 彼が主を求めていた間、 神は彼を栄えさせた。(U歴代誌26:5 ) ペリシテ人と戦い、他の民族との戦いで打ち勝ち、敵 はウジヤのもとにみつぎを納めた。 彼の勢力は並みはずれて強くなった。 彼の名は遠くに まで鳴り響いた。 しかし、強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。 聖所では 聖別された祭司しか奉仕することが許されていなかったが(民数記16:40)、王は香の壇の上 で香をたこうとして主の神殿にはいった。 祭司アザルヤたちに注意されても、激しく怒って香 をたこうとした。すると彼の額はらい病に冒され、らいを病む者として隔離された家に住んだ。 ヨアシュ王は祭司エホヤダの死によって、ウジヤ王は祭司ゼカリヤの死によって、彼らは神に 直接つながった信仰でなかったことが浮き彫りになった。 いかなる理由があれど、神に直接 つながった信仰でなければ、いつでも逸れていく可能性があるということだ。 その上、事情に よっては不信仰になり、反逆すらしてしまう危険性が大いにあるということだ。 直接、祭司という「人間」に依存した信仰は、必ず崩れていくものである。 祭司が語る導きや 教えのことばに注目し、そのことばを受け取って、行なっていくことが重要である。 人を見るの ではなく、ことばとことばを語られた主を見る。 ただ、そのようにしようとする時、妨げるものが 罪、咎、病であり、自分(自我、古き性質、肉)である。 しかし、それらを我々の身代わりにな られて十字架で死んでくださることにより処分してくださった主イエス・キリストがおられる。 そ してこの方は3日目によみがえられて今も、生きておられる。 我々人の意思(意志)はその人に任されている。 だから、自分の意志で主を認め、主に頼っ ていく。 主の御名を呼び求めていく。 そしてすべてのことについて、主キリストが自分の王の 位置、主の位置に留まっておられるよう、絶えず、へりくだっている。 このことが必要、重要と 思われる。 主イエス・キリストを信じ救われたから、「もう罪を犯すことはない」、などとは決して言えない。 「どんなことをしても天の御国は約束されている」とも言えない。 あのパウロでさえ、「私は、 すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求し ているのです。(ピリピ3:12)」と言っている。 我々は なお更へりくだっているべきであろう。 この地上で生きている限り、罪の誘惑は常にある。 だから罪を犯してしまうという可能性も常 にある。 罪を犯して、心から主に悔い改めて許された、神のもとに立ち戻った、というのであ ればよいのだが、恐ろしいのは、ヨアシュ王やウジヤ王たちのように、神に背いて 主の恵み から落ちてしまうことである。 主のもとに返れなくなることである。 今日の祭司といわれるキリスト教会の牧師や指導者たちは、いかに自分(人間として)の影響 を与えず、ただ主が語らせようと望まれている主のことばを伝える筒のような器に徹するかが 重要と思われる。 また、主のことばを聞く者、受け取る者は、いかに(人間として)その人を見 るのではなく、その人を通して語られる主のことばを素直に受け取ることが重要と思われる。 いずれにしても人に依存した信仰でもなく、表面的な信仰でもなく、直接、主イエス・キリストと しっかりつながった信仰で歩んでいきたいものである。 絶えず、すべてのことにおいて自分の 前に主を置いて、主の主権を認め、神に全面的に委ねていく生き方、すなわち「主を恐れ、主 の御前にへりくだる」ことを徹底していきたいものである。 主イエス・キリストから目を離さず、 直接的なキリストとの交わりを深くしていきたいものである。 ★旧約聖書 箴言 16:20 みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。 ★旧約聖書 箴言 3:5 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。 |
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