めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年6月19日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<主から与えられている位置でキリストのからだにつながる>


★新約聖書 ローマ人への手紙 12:3,4,5
   私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思
   うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与
       えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
   一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じよう
   に、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官
   なのです。

★旧約聖書 箴言 8:5
   わきまえのない者よ。分別をわきまえよ。愚かな者よ。思慮をわきまえよ。

●主イエスは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる(マタイ16:18)」と言われ、「ふたり
または三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである(マタ
イ18:20)」
と言われた。 また、パウロは「(教会)の土台とはイエス・キリストです(Tコリント
3:11)」
と言った。

そもそも「教会」の意味は、ギリシア語のエクレシア「(神のみ旨と業を行うため)召し出された
者たち」「集会・集合」である。 だから建物ではないが、教会堂を建てることによって、そこに
教会ができた、また、教会堂があるところが教会と多くの人が思っているかもしれない。 

一般的によく聞かれることは、教会とは大きな群れの教会や個人の家で集まっている家にあ
る教会など目に見えるもの、また、場所と時間を越えた目に見えない、普遍的なものである、
などといろいろ主張はあるようだ。 しかし、主イエスやパウロのことばからすると、ひと言で言
うなら「教会とは、主イエス・キリストが真ん中におられ、聖霊が導いておられるところ」である。

人のからだには様々な器官がある。 一つ一つの器官の働きはみなちがう。 手にしても右手
と左手の働きは微妙にちがう。 それぞれ独自の働きがある。 その器官が、本来、造られた
位置にあって、造られた器官の働きをするから十分に機能する。 手は手のあるべき位置で
体に付いて、手の働きをするから、十分に手の機能を果たす。 一つ一つの造られた器官が、
それぞれ造られた位置で機能していることが健全なからだであると言える。 極端な例ではあ
るが、例えば、体が五体満足、健全であるのに、手が足の働きもしようとするなら無理がいく。 
それは分を超えることになる。

我々人も、一人一人、みなちがう。 顔や体格もちがう。 性格もちがう。 一人一人、個性が
ある。 同じようにクリスチャンは皆、それぞれ異なった賜物を与えられている。 だから働きも
ちがう。 クリスチャンにも個性がある。 もちろん、聖別されなければならない部分の個性もあ
るだろうが、主は一人一人に個性があることを、良しとされている。 

聖書によるならば主イエス・キリストを信じた一人一人は、キリストのからだのどこかの器官で
あるということだ。(Tコリント12:2) だから、本来、我々も主から与えられている位置で働
き、務めをすべきであるが、それ以上のこと、その位置から超える働き、務めをすることは、分
を超えることになる。 また、その位置からずれることも同様である。 要は、主から与えられて
いること、主が自分に望まれていること、主が自分にさせようとすること以上のこと、以外のこ
とをすることは、主のみこころ、主の御旨と思っていても、肉(キリストを離れた自分の考え、想
い、感情)で行なっている可能性があるということだ。 

そういう意味では、「わきまえる」「慎み深い考え方をする」ことは大切なことである。 まずは、
どこかの器官である我々クリスチャンは、真にしっかりとキリストから与えられた位置で、キリス
トのからだにつながっていること、組み込まれていること。 そして、つながったところで主から
与えられた務め、主に導かれる働きをすべきであろう。 そうする者が、「人を自分よりもすぐ
れた者と思」
えることだろう。 そして、主はへりくだった者、と見てくださるであろう。

教会の定義については、今までも今も、いろいろな意見がある。 ただ、思うに、たとえ、今、ど
こかの地でたった一人しかクリスチャンがいないという環境、また近くに教会があっても主が導
かれる教会がなく、一人で主に従わざるを得ない状況のクリスチャンであっても、キリストのか
らだの一つの器官として組み込まれている、つながっているということは大いにあり得る。 

今後はどのような形に主がなさるかわからないが、今日、通信方法、交通手段が大いに発達
しているので、たった一人で孤立しなければならないということは、ないと思われる。 たとえ、
あったとしても真に祈っているなら、交わる人を主は必ず与えてくださると思われる。

著者の場合、15年前、以前、所属していた教会から召し出された(追い出されるという形だが)
時、交わりを持てるクリスチャンがいなかった。 人間不信、教会不信に陥っていたのも原因
の一つであったが、とにかく、導かれる教会がなかった。 また日本の教会の実情を多く知らさ
れていたので、行ってみたいという教会が見当たらなかった。 1年半、一人で徹底して祈りに
祈った。 その後、いろいろな(キリスト教会の)団体の代表者に直接会って話してみたりもし
たが、主が導かれているところではなかった。 それから主が様々な体験を通させてくださり
今日に至っている。 主から与えられている位置でキリストのからだにつながることをさせて
くださった。 この位置からはずれないように、日々、主に祈っている。

いずれにしても、今現在、周りの環境、状況がどのようであれ、一人一人が与えられた位置で
キリストのからだに真につながっているなら、主は必ず、一人一人に応じて、明確な導きを与え
てくださるであろう。 とにかく、主と主のことばの前にへりくだり続けることである。 日々絶え
ず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、キリストとの交わりを深く
していき、聖霊の流れに乗り続けていきたいものである。

★旧約聖書 イザヤ書 57:15
   いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられ
   る。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりく
   だった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

★新約聖書 ピリピ人への手紙 2:3
   何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた
   者と思いなさい。



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