めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年6月5日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<キリストにくっ付いてキリストの影響を受ける>


★新約聖書(口語訳)   ヨハネによる福音書 15:4
   わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝が
   ぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あな
   たがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。

★新約聖書  ガラテヤ人への手紙 5:16
   私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるよう
   なことはありません。

第一コリント人への手紙によると、かつてコリントにある教会では争いがあった。 不一致、
仲間割れがあったようだ。 「あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロ
に。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。(Tコリント1:12)」

書かれている。

4つのグループに分かれたようである。 コリントにある教会の創設者であり、信仰による救い
というキリスト教の最も重要な福音の奥義の深い理解者、使徒パウロ、聖書に通じた雄弁な働
き人アポロ、ケパ、すなわちイエス・キリストの筆頭弟子ペテロ、そしてキリスト。 それぞれが
自分たちこそ正しい、との主張、主導権争いである。

いずれにしてもこのような分裂は人間の自分勝手な考えが入っている。 肉の仲間意識も入っ
ているかもしれない。 福音真理のための戦いではなく自己中心的である。 まして、キリストと
人とを同等に置いて、キリストを人の基準にまで引き下げていることは、もっての外である。 

分裂の根には、救いと救いに関することが、すべて神から与えられたもの(こと)ということを深
く認識しないで、働いた人の評価、考えを入れているということがある。(ヤコブ1:17) いわば
傲慢の根が・る。 本来、教会はパウロが言うように、同じ心、同じ判断を保つべきである。
(Tコリント1:10) 神が立てられた権威の指導者のもとにキリストにあって統制が取れている
べきであろう。 

「・・・につく」というのは、その人にくっ付く、密着する、つき従う、味方になる・・ということであ
る。 そういう意味では「キリストにつく」べきであるが、コリントの教会の人たちは、このときキリ
ストをパウロやアポロ、ペテロという人の基準、レベルで考えている。 また本当に「キリストに
つく」というなら、意味合い通り、キリストにくっついて、主と主のことばに従っていくべきである。 
そして、神が立てた権威、すなわち、キリストが任命した使徒であるペテロやパウロに従うべき
であり、主が立てられたアポロを尊ぶべきである。 

今日もキリスト教会には多くの教団があり、宗派がある。 それぞれ聖書のどの教えを強調し
ているかや聖書解釈の違い、教理の違いで分離、分裂が繰り返されてきたと思われる。 長い
キリスト教会の歴史の中で、パウロが言うように「ほんとうの者が明らかにされるためには、分
派が起こるのもやむをえな」
かったのかもしれない。(Tコリント11:19) しかし往々にしてコリ
ントにある教会での分裂のように、悪い動機、すなわち肉の主張、考えからのものが多かった
のも事実であろう。 それでも今日までキリスト教会が存続しているのは、ひとえに神の御手
があったからだと思われる。

人が集まるところには、様々な野望が渦巻く。 もちろん、どの教会もどのクリスチャンも「キリ
ストの救い」を中心にしていることには変わりないであろうが、いつの時代にも分裂、分派、分
離は起こってきたし、今後も起こり得ることであろう。 そしてそのようなときには、人の思考、
好み、感情が入っている可能性の方が強い。 「主のため、主のみこころ」と言いながら、案
外、人の意向、計画を推し進めている場合の方が多いかもしれない。

パウロはコリントの教会の人々に一致するよう促し、エペソの聖徒たちにも「御霊の一致を熱
心に保ちなさい。(エペソ4:3)」
と語っている。 主イエスは十字架にかかられる前、父に、我々
信じる者たちが「一つになること、一致すること」を祈られた。(ヨハネ福17:21〜17:23) 確か
に、神は主イエス・キリストを信じる者たちが、キリストにあって、主にあって一つになること、一
致することを望まれている。 キリストにあって一致しているときには、皆の目は、主に向けら
れている。 焦点、中心が主イエス・キリストにある。

ただ、「一つになる、一致する」ことは、一人一人がしっかりキリストにつながっているからでき
ることである。 我々主を信じる者たちは、まずキリストにしっかり くっ付いていること、つな
がっていることが重要である。 一瞬、くっ付いた。 くっ付いていたが時々、離れた。 また今
は完全にくっ付いているとは言えない、というのでは「キリストにあって一つ、主にあって一致」
を継続することはできない。 

「・・・につく」「・・にくっ付く」というのは、その付くものの影響を受ける。 この地上で生きている
限り、人は様々な影響を受けるが、最も大きいのが人から受ける影響ではないだろうか。 成
長にプラスになるような良い影響ならいいではないか、という意見が圧倒だと思われる。 しか
し、聖書が語っていることは、主イエス・キリストを信じた者は、キリストからの影響をが受ける
べきであるということだ。 すなわち、キリストにつながれ、キリストと一つになれ、ということで
ある。(ヨハネ福15章、17章) 

著者は約20年くらい前、教会で弟子訓練を受けていたが、いろいろな理由があり、弟子訓練に
関しては、当時の牧師の影響を受けることがなかった。 しかし、他の様々な面で牧師の影響
を受けた。 教理はもちろんだが、聖書解釈、考え方、・・・など。 約30年前、救われてから、
教理や聖書解釈に関しては疑いもせず、そのまま鵜呑みにした。 当初は、キリストのことを
何も知らないのだから吟味する余地などなかった。

ただ、約15年前、その教会から主が召し出してくださって(追い出されるという形だが)、いろい
ろな経験を通して主が教えてくださるにつれ、自分がいかに牧師という人間の影響を受けてい
たかを思い知らされた。 もちろん正しいことも大いにあったが、受け取ってはいけないことを
見破り、抜き出されるのは 厄介なことだった。 ヤコブの手紙3:1に、「教師は、格別きびしい
さばきを受ける」
と書かれているが、その通りだと思った。 一度、内側に入ってきたもの、深く
入り込んでいるものを抜き出すには、相当の労力と時間がかかったが、ただただ主のあわれ
みであったとつくづく思う。 主に感謝する。 主をほめたたえる。

指導者は、人をキリストとつなげる、このことを根底に持っていなければならないと痛感する。 
指導者は自分の影響を与えてはならないし、信者も指導者から影響を受けるのではない。 そ
の指導者がすばらしいなら、その方がどのようにキリストにしっかりくっ付いているかを学び取
るべきである。 何事も鵜呑みにするのではなく、キリストにあって受け取っていくことが大切で
あろう。

聖書のことで知識があまりなくても、真に祈っているなら、その人にわかるように主は教えてく
ださるであろう。 大事なことは、新しい聖霊の川の流れに乗ること、また乗り続けること、日々
絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、十字架のもとに自分を置き、主の御心を知って祈
り続けること、神に依り頼むことである。 主と主のことばの御前にへりくだること、絶えず主の
御心を知って祈っていくことをしていきたいものである。

★新約聖書 ローマ人への手紙 12:3
   私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思
   うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与
       えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。



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