めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年5月15日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<神の視点から見た尊い器、卑しい器>


★新約聖書(口語訳) ローマ人への手紙 9:21
   陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がな
   いのであろうか。

★新約聖書 第二テモテの手紙 2:20、21
    大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いこと
   に、ある物は卑しいことに用います。 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらの
       ことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたも
      の、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

●神は天地万物を造られた。 すべてのものを造られた陶器師である。 最大の傑作が人の
創造であろう。 人を神のかたち(イメージ(似姿))に創造された。(創世記1:27)  これが他
の生き物との違いであろう。 「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれら
れた。そこで人は生きた者となった。(口語訳 創世記2:7)」
は、『わたしはある』という全能の
神が、我々人を「在る(ある)」へと招き入れてくださった。 深い真理である。

さてその造り主、神が尊い器、卑しい器を造られた。 聖書の中で、家は教会のたとえである
が、上記の第二テモテの手紙のみことばによると、教会には尊いことに用いられる器、卑しい
ことに用いられる器があるという。 器は神ご自身の栄光のために用いられるが、主にとって
有益なのは尊い器であるということだ。 そのためには、自分をきよめ、不義から離れる必要
がある、と書かれている。
  
さて、「尊い」「卑しい、つまらない」とはどのようなことであろうか? 一般的には、尊い働きと
は、主のため、伝道に多くの時間をかけたり、すばらしいメッセージをしたり、いろいろな種類
の集会、聖会を持ち、また参加し、手伝ったとか、そういうことであろう。 そうすることで結果を
残した、たとえば教会にどんどん人が増えていったとか、反響がよく、集会に来る人が増えて
いき、献身者(自分の利益を顧みないで自分の身を神に捧げる者)が次々起こされたと
か、・・・。 それらは実を結んだことであり、尊く用いられたと言われる。 卑しい働きとは、そ
の反対と言えよう。

しかし、それらの見方はともすれば人(クリスチャン)の視点からのものではないだろうか。 神
が人に望まれていることは、救われて真理を知ることである。(Tテモテ2:4) そして主イエス・
キリストを信じた者に対して望まれていることは、ひと言で言えば、「主と主のことばに従う」こと
である。 

救われた者たちは「神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造ら
れた
」とある。(エペソ2:10) 「神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないを
もあらかじめ備えてくださった」
とある。 「良い行ない」とは、主のみこころを行なうこと、主が語
られたことばに従うことである。 それを正しく受け入れ、行なうことができるためには、聖めら
れる必要がある。  自我が砕かれ、肉が切り取られる必要がある。 そのために神、主が、
クリスチャンを訓練され、試練を通される。(申命記8:5、ヘブル12:7、Tペテロ4:12)

★新約聖書 ローマ人への手紙 5:3〜5:5
   そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が
   練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 この
   希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神
   の愛が私たちの心に注がれているからです。

●訓練、試練のときの苦しみ、悩みは忍耐を生み出す、と書かれている。 「信仰の試練は、
火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのと
きに称賛と光栄と栄誉に至るものである(Tペテロ1:7)」
とも書かれている。 忍耐は、単なる
我慢ではない。 キリストに頼りながら、主を見上げながらの忍耐である。 キリスト抜きでの我
慢、忍耐は、限度があり、「堪忍袋の緒が切れる」ことになる可能性大である。 

神からの訓練、試練、試しがあり、その困難、苦難による苦しさ、つらさ、怒りを、キリストに
あって耐え忍ぶことは、肉が切り取られる痛さがある。 忍耐もある意味、みこころを行なうこと
である。 主のみこころは肉で行なうことはできない。 だからキリストのことばに返る、主イエ
ス・キリストを見上げる、主のことを想う。 そのためには、主の御前にへりくだって祈る。 だ
から「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す」のである。 そして「練られた
品性が希望を生み出す
」。 「希望」を持つことの大切さは巷でもよく聞く。 ただ、聖書が語る
「希望」は、イエス・キリストにおける希望である。 その希望だから失望に終わることがない。 

このように「尊い器」とは、「主のために、多くの時間、伝道した」「主のために幾つかの集会を
持ち、メッセージをした」「主のために・・・の犠牲をはらった」などということだけで一概に判断で
きないところがある。 もちろん、そのようなことはすばらしいことである。 尊いことである。

しかし、神の視点から見た尊い器とは、まず、「主が語られることばに心を留める」こと、「主の
語られることばに聞き従う」ことに徹している、また徹しようと日々、主によりすがっている者で
はないだろうか。 そのような器が主と主のことばの御前にへりくだっていると言えよう。 

主が「・・・せよ」と言われたら、祈ってキリストにあって行ない、「・・してはいけない」と言われた
ら、どんなに行いたくても、御霊によって、からだの行ないを殺して行なわない。(ローマ8:13) 
「忍耐の時」と言われたら、あせりや肉の痛さ、苦しさからくる逃れの思いが湧き出てきたとし
ても、じっと待つ、忍耐する。 そのようにしている者が、陶器師である神が望まれている尊い
器ではないだろうか。 また「主のため」「主の導きだ」と言い、主のみこころを行なっていると
思い込んで、自分の思い、考えを実行している者は、卑しい器といえるのではないだろうか。

いずれにしても、日々の生活において、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御心
を知るために聖書を読み、祈っていくこと、そして主と主のことばの御前にへりくだり、聖霊の
流れに乗っていきたいものである。 聖霊の流れに乗り続けているなら、主がその人に応じて
自我を砕き、肉を切り取ってくださって練られた品性が心の奥から漂う者、尊い器に変えてくだ
さるであろう。 日々、へりくだって神とともに歩んでいけるようになりたいものである。

★旧約聖書 箴言 7:24 
   子どもらよ。今、私に聞き従い、私の言うことに心を留めよ。

★新約聖書(口語訳) ガラテヤ人への手紙 5:16,18
    わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことは
    ない。・・・もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。



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